そのまま神奈川県の中学に転校しようかとも考えた。だが、アパートを探していた時に、大熊町役場が原発から約100km離れた福島県会津若松市に避難し、学校を再開させると聞いた。避難者に対する嫌がらせの報道が相次ぐなどしていたので、役場に合流することにした。
「学校生活は全て支援物資でした」
役場の仮庁舎の2階で授業を再開した中学校では、多くの部活動が休止状態に追い込まれた。が、小泉さんが部長を務める吹奏楽部は再開できた。ただし、部員は半減し、楽器も支援物資に頼るしかなかった。「学校生活はシューズも服もタオルも全て支援物資でした。それでも演奏できるだけで嬉しかった」と話す。
辛かったのは冬の会津の寒さだ。耐えきれずに、太平洋岸のいわき市の高校へ進学。
「環境学を学びたい」と、東京の大学へ進んだ。
就職では「福島へ帰る」と決めていた。福島県内の木造住宅メーカーに入社したものの、「故郷へ戻りたい」という思いは抑えきれなかった。現在の職場の求人を見て応募し、昨年5月から働いている。
「何かのきっかけがあったり、これをやりたいと思ったりして、帰ろうと決意したわけではありません。単純に生まれ育った場所に戻りたかっただけです。田んぼと山に囲まれた豊かな自然の中でのびのびと育ちました。大好きな場所だったのに、過ごし足りないまま避難してしまいました」
自宅は帰還困難区域とされており、浜通りの他の町に住んでいる。ただ、自宅が特定復興再生拠点区域にぎりぎりで入った。「母屋は解体してしまったので、再建して大熊町に帰りたい」と力を込める。
語れるなら、語るべき
小泉さんには後悔がある。原発について「あまりに無知すぎた」からだ。
「原発は、役場などいろいろな施設のうちの一つというぐらいの認識しかなく、安全性と危険性を天秤にかけて考えたことなど一度もありませんでした。だから、事故を深刻にとらえられず、避難しても2~3日で帰れるだろうと思っていました。あの時、きちんと理解できていれば、もっと違った行動が取れていたのではないかと思います」
例えば、飼っていた犬と猫2匹を、そのままにして逃げた。犬は何日か後に戻ったおじが放してくれたが、それきりどこへ行ったか分からない。猫も消息不明だ。「救えなかった」という気持ちが今でも拭えない。
こうした経験があるからこそ、双葉町のまち歩きでは自分の問題として引きつけて考えてもらいたいと考えている。
汚染、避難、人が帰らない町……。ネガティブなイメージで語られる原発事故の被災地。
「生まれ育った土地がそんなふうに片づけられてしまっていいのか。絶対にダメです。私はここでポジティブに暮らしていました。双葉町ではゼロから始まるまちづくりに関わっていこうとしています。そうしたことを知ってもらうには、現場からの情報発信が必要です。ただ、津波や避難で家族を亡くすなどして傷つき、今もまだ話せない人がたくさんいます。幸い私は話せる。語れるなら、語るべきだと思っています」
切実で熱い思いが、まち歩きには込められている。
撮影=葉上太郎
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