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「語れるなら、語るべきだと思っています」福島県双葉町“住民ゼロの故郷”を案内しつづける25歳職員の決意

東日本大震災から11年 #2

2022/03/11
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聖火リレーの記念碑も

 次は初發(しょはつ)神社へ。

「この神社は社殿が大きく傾いてしまいました。上部の彫刻が素晴らしく、壊したら二度と造れないだろうと、上だけ残すことにしました。屋根を持ち上げて除染し、下だけ造り替えたのです。だから木の色が上と下で違います。初詣は去年から再開されたばかりですが、宮司さんが時々来るので、運がよければ御朱印帳に書いてもらえますよ」

初發神社は上と下で木材の色が違う。躯体が歪んだ写真を手に

 歩いているうちにぐるっと一周して双葉駅が近くなったようだ。

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 線路をまたぐ跨線(こせん)橋に上がる。ここからだと駅の裏側にある「駅西」と呼ばれる地区が見渡せる。

 双葉駅は改札のある東側に向かって街が拓けていたが、商店街などの復旧復興策はまだ煮詰まっていない。それどころか家や商店が解体されて、更地だらけになっている。そこで町役場は、反対側の田んぼが多かった地区を「駅西」と名付けて整備し、86戸の公営住宅や診療所を建設する予定だ。跨線橋からはその工事が見えた。

 そして双葉駅前に戻る。「最後に聖火リレーです。昨年開催された東京オリンピック・パラリンピックの聖火リレーは、人が住んでいない双葉町でも行われました。その記念碑があります。いずれ帰還が進んだ時に『あの頃は大変だったけど、ようやくここまで復興できた』と振り返る、町民にとっての希望の記念碑になったらいいなと思います。これからどのように町が変わっていくか、また見に来てください」と結んで、小泉さんの案内は終わった。

跨線橋からは「駅西」の工事の様子が見えた
聖火リレーの写真を手に説明する小泉さん。右が記念碑

2011年3月11日は中学校の卒業式だった

 ところで、小泉さんについて少し紹介しておきたい。

 冒頭で触れたように、自宅は隣の大熊町の帰還困難区域にあり、自らも避難を経験した。あの日、2011年3月11日は大熊中学校の卒業式だった。同校の2年生だった小泉さんは、午前中の式の後に帰宅し、自宅の2階で母とDVDの映画を見ていた。

 午後2時46分、巨大地震が発生する。

「当時は地震が続いていて、大したことはないだろうと、とりあえずベランダに出ました。次第に揺れが激しくなり、家がビシビシ、バキバキと音を立て始めます。怖くなって外に飛び出しました。6人の家族にケガはありませんでしたが、停電した夜はこたつに集まって明かしました」

 原発への危機感は家族の誰一人持っていなかったという。原発関連の仕事をしていた家族がいなかったせいもあるだろう。「核燃料は冷却しなければならないことさえ知りませんでした」。

あの日、爆発した原発からの飛来物が降ってきた双葉厚生病院

 翌12日の早朝、集会所に集まるよう言われて祖父と2人で向かった。「食べ物でもくれるのではないかと思っていました」と小泉さんは振り返る。だが、これは避難のためだった。大熊町役場は集まった人をバスに乗せ、内陸部へ運ぼうとしていたのである。

「全員で来るように」と言われて、家族を呼びに戻った。しかし、昼過ぎになってもバスは来ず、小泉さんは父母と3人で先に車で内陸部へ向かった。その時にちょうど、バスではなく、自衛隊の車両が避難者を乗せるために到着した。曾祖母と祖父母はこれに乗った。

 バラバラで移動したため、避難所で家族全員が一緒になることはなかった。そのうち90歳の曾祖母が体調を崩して入院してしまう。その後は新潟県を経て、神奈川県の父の弟の家に身を寄せた。