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「語れるなら、語るべきだと思っています」福島県双葉町“住民ゼロの故郷”を案内しつづける25歳職員の決意

東日本大震災から11年 #2

2022/03/11
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「原発と一緒に歩んできた町です」

 双葉駅の「情報発信・休憩スペース」には、被災前の双葉町の様子がパネルや年表で展示されており、まち歩きはここから始まる。

「双葉町は福島県の浜通り(太平洋岸の地域)のほぼ中央に位置していて、約7000人が住んでいました。雪が少なくて温暖。自然が豊かで、主な産業は農業でした。冬場は出稼ぎに出ていたのですが、1960年代に原発を誘致してからは、町民の5人に1人ぐらいが原発で働き、冬も家族と暮らせるようになりました。原発と一緒に歩んできた町です。ここで作られた電気は全て首都圏に送られていました」

双葉町について説明したパネル。ここから、まち歩きは始まる(双葉駅の「情報発信・休憩スペース」)

 だが、2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生した。双葉町は震度6強。太平洋岸には津波が押し寄せ、21人が犠牲になった。原発は運転を緊急停止したものの、原子炉を冷やすための非常用電源を喪失して危険な状態に陥ってしまう。

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 政府はこれを受けて翌日午前5時44分、原発から10km圏に避難指示を出した。町域がすっぽり避難指示エリアとなった双葉町は午前7時30分、全住民に「西へ(内陸部へ)避難して下さい」と呼び掛けた。

 役場は原発から約45km離れた同県川俣町へ逃げた。多くの双葉町民も川俣町へ身を寄せた。しかし、「同町も危ない」と考えた当時の双葉町長は、役場を埼玉県へ再避難させた。まずは約2000人の町民を引き連れて、さいたま市へ向かい、その後は同県加須市の旧高校校舎を拠点とした。同行した町民は約1200人に減り、町民はバラバラになった。

 掲示された年表からは、そうした経過が透けて見える。

震災前後の“二つの駅舎”

「双葉町は被災自治体で唯一、役場機能ごと福島県外へ避難しました。役場が福島県内へ戻ったのは2013年6月でした」と、小泉さんが説明する。

「情報発信・休憩スペース」を出て、振り返ると駅舎が二つある。

「左が震災前に使われていた旧駅舎。上部にからくり時計があって、地震の発生直後で止まっています。扉が開くと人形が出て来て太鼓を叩いたり、笛を吹いたりしていたのですが、地震で動かなくなってしまいました。

 右は新しい駅舎です。常磐線の運行再開に合わせて新しく建設されました。こうして時が止まった場所と、少しずつ動き出した場所が混在しているのが今の双葉町です」

旧駅舎の動かなくなったからくり時計。針が地震発生直後で止まっている
JR双葉駅の乗降客はほとんどいない。小泉良空さんの同僚、山﨑英彦さん(25)は「少しでも賑わいになれば」と特急が止まるたびに手を振っている

 道路を挟んだ駅舎の向かいでは、双葉町の新しい役場が建設されていた。

「役場は福島県いわき市にありますが、ここでは今年8月末に業務が始まる予定です。復興への大きな一歩になるでしょう。支所は福島県郡山市と埼玉県加須市、連絡所は双葉町と福島県南相馬市、茨城県つくば市にあります」

 役場が多くの出先を持っているのは、避難がそれだけ広域化し、町民がバラバラになった証拠だ。役場が住民を引き連れて埼玉県に避難し、同県にとどまっている町民が多いのも理由だろう。

「人が住んでいないのに、役場だけ戻してどうするの」。まち歩きではそんな質問が出るそうだ。「まずは役場が戻って復興を先導するという意味があるかもしれないですね。帰還が始まった時に町民の交流の場にしたいという伊澤史朗町長の思いもあるようです」と、小泉さんが補足する。