「私たちが体験するのはありのままの世界ではない。そこから一歩離れた世界だ。現実そのものではなく、脳内で作成されたメンタルモデルを体験する。」
CMを見て〈欲しい!〉と思わされることがある。もちろん自分でそう判断するのだが、そこに至る脳内プロセスは単純ではない。
人間は物事をありのままに判断しているのではなく、脳で処理された後の情報に基づいて判断しているに過ぎない。しかし、我々はそのことに気づいてはいない。このような脳の“盲点”を巧みに攻めてくるのがマーケティングである。というのがこの本のテーマだ。
ワインの話が極めて象徴的である。白ワインに赤い色をつけてテイスティングさせると、滔々と赤ワインの風味を語り出すという。“格付けチェック”の芸能人の話ではない。なんとソムリエでさえそうなのだ。
味覚は感覚の中でも騙されやすいものではある。しかし、直接刺激だけでなく、周辺にある様々な情報を統合した結果として味を感じるということがわかる。
比較的単純な感覚ですらこうなのだ。より高次な意志決定の際には遥かに多くの情報が入力される。脳は、できるだけコストをかけず迅速に情報を処理して判断する必要がある。だから完璧さを犠牲にせざるをえない。その隙をマーケティング戦略が突いてくる。
「アンカーを下ろす」という章は、何かを購入する時、必ずしも価格の絶対値だけで決めていないという話だ。たとえば家や自動車のような高価なものを買う時、あまり必要がなくとも少々のオプションは気にせず付けてしまわないだろうか。あるいは鰻丼を選ぶ時、値段ではなくて真ん中という理由だけで竹を選んでしまいがちではないだろうか。
脳はなにかを決める時、アンカー(碇)を探し、相対的な根拠で判断しがちだ。だから、家や車のオプションや鰻丼の選択においてそのように決断してしまう。
アンカー付けによる判断の操作をはじめ、記憶を作り替えさせる、衝動を高めさせる、快・不快を揺さぶる、依存させる、共感させるなど、マーケティングには実に多彩な手法がある。
それらがどのように脳に働きかけるのか、なぜ効果的なのかが快刀乱麻のごとく説明されていく。そのような脳の特性を上手に利用、あるいは悪用して利益をあげようとするのがマーケティングの本質なのだ。
AIやVRなどにより、我々の脳に作用する方法論はより巧妙になってきており、気づかぬうちに“騙される”可能性が高まっている。専門家である2人の著者は、倫理的な規制が必要だとしながらも、消費者自身が防衛する能力を身につけねばならないと説く。
この本を読んだからといって、マーケティングの影響を全く受けなくなる訳ではない。しかし、そのメカニズムを理解しておけば、より賢い消費者になれることは絶対に間違いない。
Matt A. Johnson/脳科学者。ハルト・インターナショナル・ビジネススクール教授。作家、研究者、講演家としても活動。
Prince Ghuman/マーケター。ハルト・インターナショナル・ビジネススクール教授。専門はニューロマーケティング。
なかのとおる/1957年、大阪市生まれ。大阪大学大学院教授。医学博士。著書に『こわいもの知らずの病理学講義』など。