彼の表情にはじめて、たぶんいままで何人か相手にしてきたのだろう、ネッシーの存在を信じないというより、その存在、非存在が彼らにとって、その年の贔屓の野球チームかフットボール・チームの優勝の可否程度にしか、関心というより、かかわりのない人間たちへの寛容さが甦って見えた。
私がネッシーと呼んだものを、彼がたしなめるように怪物(モンスター)と呼び直してみせたとき、私は、私たちが物見高く見物にやってきた湖にかかわる1つの噂が、この青年やその多くのある人間たちにとって、彼らのうちにあるもの、彼ら自身はあるいはそれを精神とか情念としては意識していないにしても、その核としてあるのを感じたような気がした。
退屈人間集まる
怪物なんぞいるわけがない。そう確信したからこそ、私はネス湖怪獣探検隊員募集の選考委員を気軽に引き受け、総隊長なるものをも引き受けたのだ。私の古き奇友、康芳夫(こう・よしお)プロデューサーがこの話を持ってきたとき、私は、呼び名は探検隊だが、実際はいささか形の変わった観光隊と心得ているし、隊員選考も、目的が本物の学術的探検ならば他の募集の方法もあるだろうが、今回は潜水技術プラス旺盛なヤジ馬精神の持ち主ということだろうと言い、彼にも異存はなかった。
公募して、どれくらいものずきな人間が集まるかと思ったが、上は65歳から下は中学生まで、男女取りまぜて5000人を越す申し込みがあったと聞いて、日本人がいかにこの現実に退屈かつうんざりしているかを、改めて覚らされたような気がした。
その時点ですでに、探検隊と称して世界の耳目を集め、お祭り騒ぎでネッシー・パック・トリップに出かけるという康君の企画は、企画として当たったと言えるだろう。だいたいこの企画は、康君のつけたいささか文学的に大げさなサブタイトルによれば、「現代における精神不毛への挑戦超克のための7つの冒険シリーズ」の緒戦として行なわれることになったのだが、精神不毛の超克にはなるかもしれぬが、冒険的要素はあっても、(たとえばフィヨールドの急傾斜の湖底を、強風の吹きさらす湖面に船を浮かべての潜水操作とか、視界のほとんどきかぬ水中で、地形の複雑な行程を潜水艇を操るとか)純然たる冒険とは言いがたいかもしれない。
むしろ私が提案した第2弾の、気球による太平洋横断や、12メーター・クラスのヨットによるアメリカ・カップへの初参加のほうが、文字どおり冒険であり、至難の挑戦と言えるだろう。
しかしともかくネス湖で怪獣探しをするというのは、企画としてはあまり斬新でもショッキングとも思えないが、辣腕なわりに、一方では相変わらず文学青年気質の抜けない康プロデューサーの文学的粉飾にかかると、7つのシリーズの先頭として、一応収まるように見えた。
ちなみに、康プロデューサーに言わせると、これらの企画は、何やら「市民社会における冒険の虚構への挑戦」だそうな。それはどういうことかと聞いたら、最初からジャーナリズムやアカデミズムの、それも主に大新聞や有名大学のひもつきの冒険ごっこでなし、市民社会に埋もれているものずきやヤジ馬を掘り出し、相手側にはない想像力で企画し、実行実現しようという、至極結構な話だ。