イギリス人が抱く「日本人」という先入観
その先入観、偏見とは、イギリス人が根強く、そして昨今はそれに新たな要素を加えて抱いている「日本人」という黄色い映像である。
それは彼らが明らかに、下意識に抱いている人種偏見に依っているし、そしてその日本人像の歪曲を助長するのに、日本のジャーナリズムほど卑屈にも熱心なものはないのである。早い話が、エコノミック・アニマルという言葉をだれがつくり出したにしろ、反省というよりみずからへの非難、誹謗のために、それを最も多く使うのは日本のジャーナリズムではないか。
現地で物議をかもした麻酔銃にしても、いきなりその話が出たのではなし「怪獣がもしいたらどうする、捕えるのか捕えないのか」「捕えたい」(これは人間の本能からして当然の話で、怪獣にせよ蝶々にせよ、珍しいものを見つけて捕えるか捕えないかと問われたら、だれでも捕えたいと答えるだろう)、ならばどうやって捕えるか、そのときは麻酔銃ででも、という話の順であった。
実際にはだれもそんなものを持ち込んでもいないし、第一日本にそんなものがあるかどうかも知りはしない。どだい、周囲の臆測は、ことが具体的になればなるほど混乱し、矛盾している。
ネス湖周辺の人間たちは別にして、ロンドンのジャーナリストや、まして外国人は(私を含めてだが)怪獣なんぞいるはずはないと思っている。
いないものをわざわざ出かけて行き、金をかけ、手を尽くして、いないと証拠立てるのは野暮だということなのだろうが、その人間たちに、いたとしたら捕えるかと問われて、捕えるに相手が相手だから麻酔銃でも使うと言えば、怪獣愛護上それはけしからんという話になってしまう。質問の前提で、相手のほうに勝手な飛躍がある。
一歩譲って、いるはずはないと思って、それを証し立てることが野暮だという相手にも、ひょっとして万一という気持があるならば、それは企画者や隊員たちと同じことで、その何万分の一の期待にすべてが乗っかって動いているのだ。ちょうど、何万分の一の危険な確率に、レゾンデートルを持つ防衛問題のようなものである。
だから、もしのもし怪獣がいたら、これは冒険的観光をはるかに越えて、あくまで学術的な意味を帯び、捕えるなり、殺すなりして、手に取り、さわって確かめる必要が出てくるはずである。たとえば、マダガスカルの近海で、生きて発見された化石の魚と呼ばれるシーラカンスは、従来の進化論に大きな影響を与えたし、ましてや恐竜に似た怪獣ともなればいっそうのことだろう。
【2回目へ続く】