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真新しいチェーン店の傍らに何やら…

 駅の周りを歩くと、そんな真新しいチェーン店の傍らに駅前旅館なのか何なのか、いかにも古びた建物があった。タクシーや自転車預かり、寿司店、不動産屋の看板が掲げられている。この小さな古い建物だけが、橋上駅舎以前からの久喜駅前の面影をとどめているのかもしれない。

 駅からさらに西に向かう通りは2本。南側にあるのが昔からのメイン通りで、提灯祭り通りという。提灯祭りは毎年7月に行われる久喜でいちばんのイベントで、8台もの山車が繰り出される江戸時代から続くお祭りだ。その名を冠した通り沿いには、古くから商店街が形成されて昔ながらの“昭和の商店街”になっていた。

 その名残はいまもあって、個人経営の小さな店が建ち並ぶ。その合間に銀行があったりするのも、いかにも地方都市の駅前風景といったところだ。

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16世紀から知られる「久喜」、変化は1960年代

 このあたりで久喜の歴史をたどってみよう。古くは16世紀、室町時代の終わり頃。古河公方の足利政氏が隠居した地として久喜の町は知られている(といってもだいぶマニアックですけどね)。

 江戸時代には利根川東遷以降田園地帯になると同時に、木綿や穀物の市が立った商業地。江戸のはじめに仙台藩伊達氏が鷹場を設けたり、米津氏が治めた小藩・久喜藩の陣屋が置かれたこともあった。

 明治に入ると養蚕業が盛んになり、大正時代からは梨の産地として名を馳せた。梨はいまでも久喜の特産のひとつだ。

 

 つまりは周囲を田園地帯に囲まれ、市場も立った商業地としての側面を持つごくごく小さな城下町、というのが久喜の町の歴史的な立ち位置といっていい。むしろ近代以前は日光街道の宿場であった栗橋や鷲宮神社の門前町だった鷲宮、水陸交通が交わる要衝の菖蒲といった町の方が賑わっていたのかもしれない。いまは、いずれも久喜市の一地域に含まれている。

 1885年に現在のJR久喜駅、次いで1899年には東武の久喜駅が開業して両路線が交わる交通の要衝と化したが、本質的には近代以前の町から変わることはなかった。

 大きな変化が生じたのは戦後になって1960年代の後半以降で、東京都心からのアクセスが案外便利だよ、ということになって人口が急増する。1977年には久喜地域と菖蒲地域にまたがって工業団地が整備されたり、駅の周りに公団団地がいくつかできたことも大きかった。1970年から1990年の約20年で現在の久喜市域の人口は倍近くに増えている。