――ということは、志穂美さんもパフォーマンスのために、一層身体を鍛えなくてはいけなかったんですね。
志穂美 ええ、花を活けるだけではなく、竹や太い枝を回してみるとか、その動きも見せるわけですから。ステージ上でものを作るということは、立ち回りや動きを見せるという、私が昔アクション女優をやっていた経験が合致したというか、これまでのことがすべてまとまってきた感覚がありましたね。
「できないことができるようになる」喜びを得た女優時代
――志穂美さんが花の作品を作られるようになったのも、そもそも女優を目指されたのも、何かを表現したいという欲求があったのでしょうか。
志穂美 きっと、あったんでしょうね。もともとは運動することがとても好きでしたし、他の子たちより体力は秀でているな、ということはなんとなくわかっていたので、「将来は体育の先生になりたいなあ」なんて思っていた時期もあったんです。ただ、テレビで『サインはV』などのスポーツを題材にしたドラマを観て「あ、世の中にはこういう仕事があるんだ」と意識し始めるようになりました。
――そこで当時千葉真一さんが創設したジャパンアクションクラブに入られた理由は?
志穂美 たまたま読んだ雑誌で見かけて、ハガキを出したら「オーディションがあるから来ませんか?」という返信が来て……それが16歳の夏でした。
――そのままオーディションを受けて合格されるわけですが、まだ高校生だったんですよね?
志穂美 そうでした。父は陸軍中野学校を出て、大蔵省の国立印刷局へ勤めていて、とてもそんなことを言えるような家庭じゃなかったんですが、自分の思いを必死で伝えて、理解してもらえるには時間がかかりましたが最終的には、東京の高校へ転入させてもらいました。
――では、普通に高校へ行った後に、アクションのトレーニングをされていたということですか?
志穂美 はい。毎日学校から帰ると、夜の6時から3時間半、ぎっしりアクションのカリキュラムが入っているんですよ。体育館を借り切って、体操の日もあればトランポリンの日もあるし、立ち回りの日もあれば殺陣の日もありました。そうそう、プールの日もありましたよ。ただ、泳ぐのではなくて、手足をしばられて泳ぐとか、殴られて飛び込むとか…。
――大変ですね……。
志穂美 ところがそんな「大変」なんて感じたことはありませんでした。どちらかというと、できなかったことができていく喜びのほうが強かったですよ。「昨日より高く跳べた」とか「空中回転ができるようになった」とか……。とにかく、当時日本にはいない、アクションができる女優の、一番最初になりたかったので。