2003年、就任1年目にして社会人球団「シダックス硬式野球部」を都市対抗野球大会の決勝に導いた野村克也監督。その確かな手腕が評価されてか、野村氏は大会後、中日ドラゴンズの新監督候補に名前が挙がった。結果的に、監督は落合博満氏に決まったが、あの時、中日ドラゴンズと野村克也氏の間では、どのようなやり取りが交わされていたのだろう。
ここでは、野村氏がシダックスの監督を務めていた際、記者として野村克也監督を追い続けたスポーツ報知記者、加藤弘士氏の著書『砂まみれの名将』(新潮社)の一部を抜粋。野村克也氏のもとに届いていた中日ドラゴンズ監督代行からの1本の電話をめぐるエピソードを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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中日“監督候補”の真相
「男に生まれたならば、一度はなってみたい3つの職業って、何だか分かるか?」
2003年の初秋。私は野村にクイズを出されて戸惑ったことがある。
「総理大臣に映画俳優、プロ野球の監督でしょうか」
「まあ、最後の1つだけ当たっているな」
マスコミの入社試験なら不合格間違いなしの凡庸な回答。名将は苦笑しながら、答えを明かしてくれた。
「オーケストラの指揮者と連合艦隊司令長官。そしてプロ野球の監督だよ。まあその内の1つになれたんだから、俺の人生もよしとしなきゃいけないんだろうな」
後にそれがフジテレビジョンの初代社長で、財界四天王の一人とされた水野成夫の言葉だと知った。生涯、野球を愛した水野は1965年に国鉄スワローズを買収し、サンケイアトムズを誕生させたことでも球史に名を残している。病に倒れ、1968年には球団の経営権をヤクルトに売却。そうして誕生したヤクルトスワローズに90年代、黄金期をもたらしたのが野村である。
中日新監督候補に急浮上
野村はその後も事あるごとに冒頭の問いを担当記者に繰り返した。
プロ野球監督という、日本で12人しか座れないイスへと長年にわたって就いてきた男の矜持が、言葉の端々から伝わってきた。
初の都市対抗挑戦は準優勝に終わったが、球界に与えたインパクトは絶大だった。
すでに68歳ではあったが、「野村克也健在」を世間に印象づける形になった。
激闘から1か月後。10月上旬のことだ。
複数のスポーツ新聞がこう報じた。
「中日新監督候補に野村克也氏が急浮上」
阪神監督退任以降、プロ野球の監督候補にその名が躍るのは初めてだった。
その頃、名古屋の名門球団は苦境に陥っていた。