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亀井静香が見た石原慎太郎「俺は裕次郎よりうまいんだ」弟の歌を歌わない素顔

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 俺が自民党の政調会長だったときに、都知事だった石原が、党本部の俺の部屋にやってきて、「この大東京に国際空港がないのはおかしいじゃないか」と言うんだ。成田まで長時間かけていくのはおかしい、と。

 それで意気投合して、すぐに運輸省(当時)の事務次官に電話をかけて、呼び出した。そして2人で、羽田に3本目、4本目の滑走路をつくるための調査費をつけろと恫喝した(笑)。行政の世界では、調査費がつけば、もう実現は決まりみたいなもの。こうやって首都東京に国際空港ができたんだよ。

 石原は「これはおかしい」という文人の感覚で、生活に直結するいい仕事をしたわけだ。

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俺と石原は陰と陽

 石原と初めて会ったときは、「格好はいいけど、しかしキザな野郎だな」と思ったね。向こうは神戸生まれで湘南育ち。根っからの都会派で、太陽ボーイだ。背も高いし、キラキラしていたよ。それは、歳を重ねても変わらなかったな。

石原慎太郎氏と亀井静香氏

 それに比べて俺なんか、中国山地のど真ん中にある村の生まれで、その中でも、たった四反三畝、いちばん小さい田んぼしか持っていなかった農家の育ち。彼の育った世界には縁もゆかりもないわけだ。

 じつは俺も昔は文学青年で、椎名麟三は全部、読んだ。あとは武田泰淳かな。戦後派の暗い作家ばかり。石原の小説なんか、ほとんど読んでないんだ。

『太陽の季節』がベストセラーになって、彼が一躍、時代のスターになった昭和31年、俺は東京大学の学生で、学費を稼ぐためにキャバレーのボーイや家庭教師など、いろんなアルバイトに励んでいた。髪型を「慎太郎刈り」にした太陽族もたくさんいたらしいが、俺はしなかった。この顔で似合うわけないだろ。

 生い立ちから、見た目、性格まで、石原とは対照的だったけど、なぜか気が合った。「陰」と「陽」がぶつかって、“化学反応”が起きたのかもしれない。だから人間関係というのは面白いんだ。

「お前」「亀ちゃん」の関係

 あいつと出会ったのは中川一郎先生との縁だった。俺は警察庁を辞めて、1979年に衆議院選挙に福田派から出馬したけど、このとき中川先生にも世話になった。中国山地の奥まで来て、応援演説をしてくれたんだ。中川さんは熱血漢で国民的な人気も高かったから、あれはありがたかったね。

 だから初当選すると、当時、中川さんを中心に反共を旗印に集まっていた派閥横断の「自由革新同友会」という政治団体に参加したんだ。10人足らずの少数グループで、中川さんを支えていたのが石原だよ。付き合いはそこから始まったんだ。

 あと平沼赳夫もいたな。俺と石原が兄弟分で、俺の3つ下の平沼赳夫が石原の「息子」みたいな関係になって、本当に仲が良かった。

 年は俺のほうが4つ下なので、面と向かって「慎太郎」とは呼べないから、「あんた」とか「お前」と言っていた。石原は俺のことを「亀ちゃん」と呼んでいた。