日本の混血孤児問題と同じことが、ベトナムでも
日本の孤児施設への支援を始めて7年目の1966年、1本の電話が鳴る。二人の活動を知ったアメリカの地方議員からだった。
議員は言った。
「あなた方が日本で行っていることは、とても素晴らしいことです。でも、日本の混血孤児問題と同じことが、ベトナムでも起こっています」
ベトナム戦争に赴いたアメリカ軍兵士とベトナム人女性との間に多くの混血児が生まれ、捨てられているという現実だった。戦後の日本と同じ状況が起こっていた。議員はこう言った。
「貧しいうえに戦争に苦しむ国の女性が、兵士との間に産み落とした赤子をどうして育てることができるでしょうか? 多くの嬰児が農村の道端に捨てられ、死んでいるのです……」
そして、その議員は言った。
「その子供たちを、あなた方の支援の力でどうにか救えないでしょうか?」
サラとイヴォンヌは悩んだ。二人にとっては、日本への支援だけでも大仕事だった。
その頃、サラとイヴォンヌはそれぞれ結婚し、子育てをしていた。仕事と家庭と子育て、そして日本への支援活動。それ以上のことが自分たちにできるだろうかと悩んだ。しかし二人は決意する。子供たちを見過ごすことはできなかった。
ベトナム戦争は、その戦況がアメリカ国内で伝えられるにつれ、果たしてアメリカの介入が正しいことだったのかと、多くの国民の間で異議が唱えられている頃だった。
サラとイヴォンヌは、揺れる全米にキャンペーンを繰り広げた。それは多くの人々の心を動かし、ウォルト・ディズニー社などの大手企業が賛同し、巨額な支援金が集まった。
二人は海軍司令官ルイス・ウォルト大将に会い、南ベトナムに5か所の孤児収容施設とその子たちのための学校、そして病院を建てた。
ベビーリフト作戦の悲劇
ところが1975年3月、ダナンが陥落し、サイゴン(現在のホーチミン)に戦火が迫った。軍の撤退が騒がれるようになると、敵国アメリカの血を継ぐ混血児たちは、北ベトナムの兵士たちに真っ先に殺されるだろうと予想された。
もはや撤退すら命がけになってきたアメリカ軍は、孤児院を見捨てることも視野に入れたが、サラとイヴォンヌは軍に願い出る。
「どうか子供たちを見捨てないでください」
話し合いが行われた。サラとイヴォンヌは叫ぶように言った。
「飛行機よ! 子供たちを安全な国外に移すための飛行機が必要です!」
1975年4月3日、当時の大統領ジェラルド・フォードは、アメリカ空軍の超大型長距離輸送機ロッキードC-5ギャラクシーを使い、30回の飛行ですべての孤児たちをアメリカに避難させると表明した。
それは「オペレーション・ベビーリフト (赤ちゃん吊り上げ作戦)」と名づけられた。
しかしオペレーションの最初に起こった事態は、サラとイヴォンヌの胸を圧し潰した。