機体後部に大きな穴が開き、そこから海が…
4月4日、大統領声明の翌日、作戦の第1便では、機体底部(1階)の貨物室の広い床に毛布を敷いて赤子が寝かせられ、そのそばに歩ける年齢の孤児たちが膝を抱えて座った。他に施設職員の修道女、看護師などの職員と乗務員。1階と2階に合わせて328人が乗っていた。
ギャラクシーは午後4時過ぎにサイゴンのタンソンニャット基地を離陸。低空では地上から攻撃を受けるため、通常よりも高い角度で上昇したが、すぐに大きな爆発音がして機体が揺れ、機体後部に大きな穴が開いた。そこから海が見えていたという。すでに数人は投げ出され、職員や子供たちはものすごい風圧を受けた。
コックピットでは、操縦が困難になっていた。不時着が試みられたが機体は急降下し、水田へ突っこんでバラバラに壊れながら地面を滑っていった。この事故で、機体2階の客室への被害は少なかったが、1階の貨物室に寝かされた赤子、孤児、職員たちは即死した。
328人中、155人の死亡が確認されたのである。
事故は国際的な非難を集めた。サラとイヴォンヌは夜通し涙したが、北ベトナム軍の包囲網は、刻一刻と迫っていた。
混血孤児を含む3300人以上の南ベトナム孤児が脱出
機種を変え、ようやく最初の作戦機がロサンゼルスのロングビーチ飛行場に到着したのは、南ベトナムが崩壊する直前の1975年4月12日だった。
第1便には赤ちゃんを含む330人の子供たちが乗っていた。彼らはロングビーチ海軍基地で健康診断が行われ、用意された養子縁組先に引き取られていった。
ベビーリフト作戦はタンソンニャット基地が使用不可能になる4月26日まで続けられ、混血孤児を含む3300人以上の南ベトナムの孤児を脱出させた。
後にこの作戦を、北ベトナム政府は「国家的な児童誘拐」であると非難を表明した。アメリカ国内でも、果たしてベビーリフトは最善であったのかと議論された。
その後の追跡で、脱出した子供たちの多くは里親のもとで先進国の基本的な生活を送り、教育を受けることができたという。数十年後、大人になった彼らが母国ベトナムを訪れるという里帰り事業も行われた。
もちろん、幸せをつかめなかった子供も少なからずいたことだろう。今なお賛否はある。
歴史は、同じ光景を繰り返す。
2021年夏、アフガニスタンから急いで撤退するアメリカ軍の兵士に、混乱して殺到する人々からせめてもと幼い子供が手渡される映像が流れた。
それはまさに、ベビーリフト作戦をほうふつとさせる光景だった。
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