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田島 そう、このままじゃここに埋もれてしまう、と。それで2年で自衛隊を辞めた。そしてちょっと旅に出たんだ。親に黙って辞めちゃったもんで、すぐに帰れねえ。ちょうど高倉健の『網走番外地』っていう映画があったんだよ。それ見て北の大地に憧れて。北海道を旅した後、実家に戻って瓦を運ぶのを手伝いながら、今度は東京に行ったの。

三島由紀夫の身辺警備をすることに

――北海道から戻って、東京では何をされたんですか?

田島 当時、学生たちはいろんな思想のもと、戦ってた時代だった。左は学校の不正とか政治への不満とか、右は学校から依頼されて学生運動を鎮圧する側。警察だけじゃ足りねえって、当時の大学は相撲部とか柔道部とかあのへんの学生も雇っていたんだ。

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 俺は学生じゃねえけど、国や社会のために何かしてみたくて。その頃、自衛隊員を応援してくれてた小説家の三島由紀夫を尊敬していたの。その頃の右翼はただ暴れるだけじゃなくて、精神的な右翼思想や活動をちゃんと勉強しよう、っていう人が多かった。

 
 

 俺はまだ二十歳そこそこだったけど、国の行く末を純粋に考えてる三島由紀夫を応援しようって。そしたら、たまたま友達が三島由紀夫と関わりがあったんで、俺たちは仲間を50人くらい集めて会を作って身辺警備をやることになった。混沌とした時代だったから狙われたりすることもあるかもしれないし、俺みたいなのでも少しでも役に立てたらと思って。

――あの三島由紀夫さんの警備を? 直接、お話しされることもあったんですか?

田島 いいや、話は一切せん。俺たちは遠まきに警備をしてただけ。あの人のすぐ横にいたのは、早稲田とか東大とか「楯の会」のエリートの子たち。俺なんかだと頭のレベルが違うよね。でも、知ってると思うけど、三島由紀夫が1970年の秋に市ヶ谷駐屯地でクーデターを呼びかけて切腹自殺したの。突然だったから驚いてよ。

――三島由紀夫さんが亡くなられた後も活動は続けたんですか?

「こんな俺でも、少しでも世の中の役に立ってから…」

田島 三島由紀夫が死んだ時、俺は運動をきっぱりやめた。国のために死ねるとか、俺も含めてみんな口では言うんだけど、実際、腹を切って死んだのは三島由紀夫と学生の森田必勝の二人だけ。

 切腹したところを見た訳じゃねえけど、やっぱり俺は国のためには死ねねえ。それを悟った。そしたらもうこんな活動は、嘘っこだなと。口だけ威勢がよくても、できねえことは周りのもんに迷惑かけるからやめようって、仲間たちと会を解散したんだ。

 生きている時はずっと近づけなかったけど、偲ぶ会で仮に置かれた柩の警備をして見送ることができた。一番最期に一番近いところで。それでもう終わりにしようって。

――けれど、三島由紀夫に心酔されていた若い時とは違って、それから田島さんは長い間、世の中のために尽くされてきましたよね。デコトラに出会い、被災地や交通遺児の支援などでつらい立場にいる人たちに寄り添ってきました。

 

田島 まだまだだけどね。何もできねえ子供のころ、本当に孤独だったから、遺児とか弱い立場にいる子供や困っている人の気持ちが少しは分かる。だから、上から何か理想を語るよりも、一緒になって泥かきしたり炊き出ししたり。そんな地を這うような活動をしているからこそ、同じ人間同士、絆が生まれるのかもしれねえな。

 俺はもう74歳で3年前に大手術して肩まで切った。脊髄が圧迫される、国の難病に指定されてよ。いつまで支援を続けられるか分かんねえけど、こんな俺でも、少しでも世の中の役に立ってから死にてえと思ってるんだ。

撮影=三宅史郎/文藝春秋

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。