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「こんな嫌な女の役を、どうして私に?」市原悦子はなぜ『家政婦は見た!』の主演になれたのか…視聴率30%超を記録した“土ワイ”の制作秘話

『2時間ドラマ 40年の軌跡 増補版』より #1

2022/03/29
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 もともと土曜夜9時の枠は、裏番組との激しい競争下にあった。それまでも土ワイは日本テレビ『熱中時代』『池中玄太80キロ』、TBSの前番組『Gメン'75』、フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』などの強敵に苦しめられてきた。それでも、『ザ・サスペンス』が始まる前の81年、土ワイは年間平均視聴率20・9%と驚異のスコアを叩き出していた。それが翌82年には17・7%に低下。83年には16・9%にまで落ち込んだ。視聴率のパイの食い合いは誰の目にも明らかだった。

テレ朝とTBSの“戦法”とは?

 迎え撃つテレ朝も、ただ手をこまねいていた訳ではない。『ザ・サスペンス』の第1回放送の4月10日には、高視聴率が期待できる松本清張原作の『風の息』を3時間に枠を拡大してぶつける作戦に出た。というのも、TBSは当初、第1回に同じ松本清張の『内海の輪』を予定していたからだ。しかし、それを受けてTBSは『内海の輪』を翌週に回し、急遽、沢田研二主演の『陽のあたる場所』に切り替えた。早くもオンエア前から場外乱闘気味である。

 その後もテレ朝は常時30本のストックを作り、その中からTBSの放送リストを睨んで勝てそうなタマ(または捨て駒)をぶつける戦法をとった。たとえば、

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・82年4月17日

【TBS】『松本清張・内海の輪』

【テレビ朝日】『西村京太郎・北帰行殺人事件』

・82年5月1日 

【TBS】『入試問題殺人事件』

【テレビ朝日】『妻と愛人の決闘』

・83年10月8日

【TBS】『情事の計算書』

【テレビ朝日】『横溝正史の真珠郎』

 83年末までの1年9カ月の視聴率争いはTBSの38勝43敗1分。やや負け越しだが、小差でほぼ互角の勝負。眠れる獅子・TBSは目を覚ましつつあった。

 82年9月11日に放送した『惨事・バスガイドの殺意』(主演・古手川祐子)は同枠での最高視聴率28・3%をマーク、しかも外注ではなく、堀川とんこうプロデュースによるTBSの自社制作である。テレ朝の関口は当時の心境をこう語る。

「きつかった…ウチが勝っても2~3%くらいの差でしか勝てない。ところが、負けるときは10%以上の開きが出る。ビートたけし・樋口可南子が主演で、久世光彦が演出の作品(『みだらな女神たち』)なんて素晴らしくてね。そういうときにはイヤになりましたね」

©iStock.com

 形勢が傾いたのは翌年に入ってからだ。TBSは次第に負けがこみ始め、6月下旬までで9勝23敗1分で大きく水をあけられてしまった。5月に放送したレオナルド熊を刑事役に起用した『熊さんの警察手帖』が14・5%、萩原健一と金沢碧のベッドシーンで売ろうとした『宣告』に至っては11・8%と立て続けに15%を割り込み、これが引き金になって『ザ・サスペンス』はその年の9月末で終了することになった。

 土ワイはこの年に17・6%まで平均視聴率を戻した。2年6カ月にわたる死闘は、サスペンスドラマ以上にスリリングな展開だった。

 結果、軍配はテレ朝に上がったものの、関口は胃も心もボロボロになった。とりわけ関口や塙淳一ら土ワイ班にとっての痛恨事は、同僚の吉津正の死であった。享年47。一時期、別の2時間ドラマ枠である『月曜ワイド』をテコ入れするために土ワイを離れていた関口に代わり、3代目チーフプロデューサーを務めたのが吉津であった。

 『ザ・サスペンス』との消耗戦に神経をすり減らし、映画会社との昼夜を問わぬ打ち合わせが病魔を呼び寄せ、彼の身体を蝕んだことは想像に難くない。むしろ殉職と言ってもいいだろう。亡くなる3カ月前の84年6月13日付の日刊ゲンダイの取材に応じて吉津はこんな言葉を遺している。

「ボクは口が酸っぱくなるほど、長い目で見てくれたらウチのほうが優れているのが分かるはず、と言ってきましたからね。TBSさんが撤退してくれるというなら、ウチの勝利ということ。順当な結果だと思う」