1ページ目から読む
5/6ページ目

タイヤのつかない「足なし車」

 こうした苦労が実り、1945年12月、東洋工業は念願だった三輪トラックの生産再開に漕ぎ着け、翌年4月には月産100台を超えた。

 ただ、当初懸念した通り、最も苦労したのはタイヤの調達だった。GHQの厳重な貿易統制もあって需給が逼迫し、車体が完成してもタイヤのつかない「足なし車」「ゲタ履き車」などと呼ばれる状態で在庫が積み上がった。

 納入を待ち切れない恒次は、ブリヂストンの久留米工場に従業員を出向かせ、買いつけたタイヤの現物をそれぞれ脇に抱えて列車に乗せ、広島に持ち帰らせたこともあった。だがそれも“焼け石に水”で、工場敷地内の空き地に数百台の「足なし車」が置かれていることも珍しくなかった。

ADVERTISEMENT

 見習工制度(技能者養成制度)の1期生として1928年に入社し、後に車両組立課長を務めた丸子延太郎は、タイヤの代わりに木枠の輪をホイールに履かせた「足なし車」が並んでいる光景を長く記憶していた。

「現場の作業者は売り物にならない車を作って給料がもらえないのではないか、また車を作らないようになるのではないかと心配しておりました」と当時の工場内の雰囲気を振り返っている。

 それでも復興需要で三輪トラックはよく売れ、1948年11月に生産再開当時の目標である月産500台に到達する。戦後の生産再開から丸3年が経とうとしていた。

 経済は依然低迷していた。吉田茂内閣が石炭や鉄鋼など重点産業の傾斜生産を進めるため、1947年1月に復興金融金庫を設立。同金庫が資金捻出を目的に発行した債券を日銀が引き受けたことで起こった「復金インフレ」が国民を苦しめていた。

 当時の米大統領ハリー・トルーマン(1884~1972年)は日本のインフレ克服のため、1949年2月にデトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジ(1890~1964年)をGHQ経済顧問として派遣する。

 ドッジが断行した緊縮財政や復興金融債の発行停止などにより、国内経済は一転してデフレとなり、企業倒産や失業が続出する、いわゆる「ドッジ不況」に陥るのだが、翌年6月に火蓋を切った朝鮮戦争の特需で日本経済は急速に息を吹き返す。

 そのドッジが来日した1949年2月、戦後の広島で大きな存在感を発揮するプロ野球球団の胎動が始まる。きっかけは2月5日に開かれた社団法人日本野球連盟(日本野球機構の前身)の評議員会で、読売新聞社社主の正力松太郎(1885~1969年)をコミッショナー兼名誉総裁に推挙することが決議されたことだった。

正力松太郎 ©文藝春秋

 正力は戦時中大政翼賛会総務を務めていたことなどを理由に、戦後はA級戦犯に指名され、巣鴨プリズン(旧東京拘置所、東京・東池袋)に収監されていた。

 1947年9月の釈放から1年5カ月後となる日本野球連盟コミッショナー就任は、久しぶりの晴れ舞台となるはずだったが、GHQ民政局長コートニー・ホイットニー(1897~1969年)や日本の法務庁(法務省の前身)から「追放令違反」などとクレームがつき、5月2日に正力は辞任を余儀なくされる。

 ただ、わずか3カ月の短いコミッショナー在任中、正力は球界を揺るがす構想を発表した。4月15日の記者会見で明らかにした「2リーグ制」移行である。