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正力松太郎の「2リーグ制」構想

 敗戦から5カ月後の1946年1月に日本野球連盟は活動を再開。4月からは8球団による公式戦がスタートした。戦前「職業野球の生みの親」として球界に君臨していた正力は、日本のプロ野球の発展を名目に米大リーグと同様の2リーグ化を打ち出すことで、敗戦で失った自身の求心力を取り戻そうと考えていた。

 この時点の正力の構想では、まず現状の8球団に2球団を加えて、1リーグ・10球団とし、それから2年ほど時間を置いて2リーグ・12球団を目指すというものだった。2リーグ制へ即座の移行を主張しなかったのは、既存球団の反発が予想されたからだ。

 戦後の混乱の中、見切り発車で再開したプロ野球だったが、娯楽に飢えていた国民の人気は予想以上に高まった。また、ベースボール発祥の地・アメリカからやって来たGHQ幹部には野球ファンが多く、陰に陽に日本野球連盟をバックアップしてくれた。

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 その甲斐あって、公式戦再開から4年目の1949年には全球団の黒字化が見込まれるようになっていたため、読売や中部日本新聞社(現在の中日新聞社)、田村駒(大陽ロビンスの親会社)などを中心に「せっかく8球団で利益が出始めたのに、なぜこれ以上増やすのか」と球団拡張に反対する声が強かった。

 中でも強硬だったのが読売と中日である。というのも、正力は最初に新規加入させる2球団について、同業の毎日新聞社を最有力候補とする意向を示していた。毎日に白羽の矢を立てたのは、プロ野球人気をこれまで以上に国民の間に広げるには全国紙の影響力が不可欠との考えからだった。

 当時、読売はまだ東京中心の新聞であり、関西から九州までの西日本では朝日新聞社と毎日が販売・配達網を広げ、読者数を競っていた。

 正力から同年春に新球団設立を持ちかけられた当時の毎日新聞社社長、本田親男(1899~1980年)は新たな読者層開拓に大きな効果が見込めるという販売部門からの後押しもあり、プロ野球進出を決断。これが毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)の誕生に結びつく。

正力松太郎 ©iStock.com

 戦後、A級戦犯や公職追放の対象となった正力はこの時期、読売の経営から退いており、会社の実権は正力退場後の1945年12月に社長に就任した馬場恒吾(1875~1956年)以下、編集局長などを兼務していた副社長の安田庄司(1895~1955年)ら「反正力派」が握っていた。

 これに対し、正力は当時日本野球連盟副会長(後のセントラル・リーグ会長)の鈴木龍二(1896~1986年)をはじめ、戦前のプロ野球創立以来の腹心の部下を使い、新球団設立(事実上は毎日のプロ野球参入)実現に向けた多数派工作を展開。結局、正力は「古巣」の読売を懐柔できず、日本野球連盟は空中分解に追い込まれる。

 1949年11月26日、代表者会議で連盟解体と2リーグ編成が決議され、さらに「毎日参入」賛成派が同日、太平洋野球連盟(後のパシフィック・リーグ)設立を宣言するに至る。一連の動きが「2リーグ制移行」でなく、「2リーグ分裂」としばしば表現されるのは、正力構想を巡る球界内部の激しい対立が背景にあったことを物語っている。

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