とはいえ、枕崎台風の被害は深刻で山陽本線はまだ不通。そこで恒次は東洋鋼鈑の船を再び借り受けて海路で東進し、呉線の須波駅(広島県三原市)から列車に乗り換え、東京を目指した。
ところが、商工省産業機械課に顔を出して拍子抜けする。
「なんだい、達者だったかい」
くだんの官僚の口から出たのは、たったこの一言。
「ひとの安否を確かめるだけのことで、遠路交通事情の悪いさなかに呼び出したのかと、腹が立った」
恒次はさすがに感情を害したが、後々振り返れば、決して無駄足ではなかった。この時、東京で目の当たりにした光景が、恒次の心を大きく動かしたのだ。
部品の調達と根回しに四苦八苦
広島では当時、進駐してくる豪州兵に備えて「婦女子はみんな山へ避難させなければ」などと真剣に話し合っていた。ところが、同じように敗戦に打ちひしがれていると想像していた首都・東京の様子は、まったく目を疑うものばかりだった。
「銀座では、日本女性と進駐軍兵士が腕を組んで歩いているではないか。『これはちと様子が違うぞ』と、すぐ広島に帰った」
広島へ戻り、父・重次郎に生産再開を進言しようとしたが、自分ひとりの見方では間違う可能性もある。そこで、妹婿の村尾時之助(後に副社長、1903~84年)と当時労務部長などを兼務していた取締役の河村を上京させ、さらに状況を分析することにした。その結果、3人揃って「ともかく車をつくろう」という結論に達した。
それからの動きが慌ただしい。まず、当局への根回しが必要だった。戦争末期、軍需中心となっていた東洋工業が民需産業に転換する「許可」を得なければならない。
終戦からわずか2カ月後である。昭和天皇が連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー(1880~1964年)を赤坂(当時の地名は榎坂町)の米国大使館に訪ねたのは9月27日、そのマッカーサーの下でGHQ総本部が設置されたのが10月2日、終戦処理に当たった東久邇宮稔彦内閣が総辞職し、後継の幣原喜重郎内閣が誕生したのが同9日だった。
河村の回想記(『広島経済人の昭和史Ⅰ』)によると、東京へ出張し、商工省やGHQを訪ねたのが10月6日だった。「三輪車1000台、削岩機1000台、自転車3万台をつくらせてほしい。それらの材料の配給を頼みたいと陳情して回ったわけです」。
相前後して、恒次は京都の日本電池(現在のジーエス・ユアサコーポレーション)をはじめ、鳥取・米子の日曹製鋼(現在の米子製鋼)、島根・安来の日立製作所(現在の日立金属)などを訪ね、必要な資材・部材の調達に奔走した。
各社の工場はブリヂストンと同じように休眠状態だったが、安来の日立の工場では珍しく煙が上がっていた。ただ、よく聞くと正規の事業ではなかった。「世のなかの軍需工場が(敗戦後は)おおむねナベ、カマをつくっていたように、ここ(安来工場)は刃物屋だから、包丁なんかをつくっては急場をしのいでいたようであった」と後に語っている。