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工員食堂の2階が「NHKスタジオ」になるカオス

 東洋工業は、当時広島に本拠を置いた主要企業の中で原爆の被害が比較的軽微だった。

「エノラ・ゲイ」が投下した原子爆弾「リトルボーイ」(TNT火薬換算で16キロトン級)は広島市中心部の細工町(現在の中区大手町)にあった島病院(現在の島内科医院)の上空約600メートルで炸裂。強烈な爆風は約5・3キロ離れた府中町の東洋工業本社工場も襲ったが、「小高い丘が盾となって本社屋は壊滅的な被害を免れた」(マツダ公式ブログ「マツダ百年史」)。「小高い丘」というのは、爆心地から東南東約1・8キロの場所にある比治山(標高71メートル)のことだ。

 それでも、工場は一部の屋根が吹き上げられ、ほとんどの窓ガラスが破損した。機械設備は無傷だったものの、当日早朝から市内鶴見町(現在は中区、爆心地から約2キロ)の民家取り壊し作業に赴いた「東洋工業職域義勇隊」の従業員約200人のうち、73人が即死、残りの約130人も重傷を負った。

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『松田恒次追想録』によると、創業者で当時社長の松田重次郎は市内西蟹屋町(現在は南区)を自動車で走行中だったが、爆心地から距離があり、難を逃れた。専務だった恒次も広島県高田郡白木町(現在の広島市安佐北区)の疎開先に滞在していて無事だったが、次男で当時マツダモータース社長の宗彌(1897~1945年)は爆心地から至近の塚本町(現在の中区堺町、土橋町付近)の事務所で被爆し、48歳の若さで亡くなった。

『東洋工業五十年史 沿革編』には、原爆による同社の死者は先に触れた職域義勇隊の参加者を含め計119人、負傷者335人と記されている。

 施設の被害は軽微だったが、被爆直後、東洋工業は一切の生産活動停止を余儀なくされた。理由は自社の事情や都合ではない。市中心部の官庁・企業が建物、人員とも壊滅状態となったため、業務機能を維持したまま残った唯一の大企業として、地域の救済に全社を挙げて取り組んだからだ。

 本社に隣接する東洋工業附属病院(マツダ病院の前身)には大勢の市民が押し寄せた。「空襲を受けた広島市民が一番広い道を東へ向かって避難する時、最初に見いだす医療機関がこの病院だった」と当時同社労務課教育係主任だった中尾一真は回想録で振り返っている。東洋工業は食堂や寄宿舎なども開放し、医薬品をはじめ機械油や布類などの資材も放出した。

東洋工業は、のちにマツダとなる ©iStock.com

 また、広島県庁や裁判所など庁舎を失った官公庁や司法機関などから建物貸与の申し入れがあり、同社は代替事務所を提供した。このため、府中町の本社周辺は一時期「広島の官庁ビジネス街」の様相を呈した。

 例えば、日本放送協会(NHK)。爆心地から1・8キロの上流川町(現在の中区幟町)にあった広島中央放送局は本館が鉄筋コンクリート2階建て、さらに空襲などに備えて周囲に高さ3・5メートル、厚さ0・5メートルの外側板囲いの土塀が築かれていた。この重厚な造りのおかげで被爆による倒壊は免れたが、爆風で窓ガラスがすべて飛散し、本館や木造の別館にいた職員ら34人が即死。同局は壊滅状態となった。

 生き残った職員らは爆心地から北へ約9キロの安佐郡祇園町(現在の広島市安佐南区)にあった原放送所に三々五々避難した。翌7日には同放送所の予備スタジオを使い、放送を再開したが、市内中心部からあまりに遠い。

 代替スタジオの設置が可能な建物を探したが、中心部一帯は焼け野原。ようやく行き着いたのが向洋地区(現在は南区)にあった東洋工業工員食堂の2階である。9月20日に借り受けて業務をスタートさせ、上流川町の局舎の復旧工事が完成する翌1946年秋まで、工員食堂2階からの放送が続いた。