中国新聞社の事情も似ている。当時、発行部数約38万部の広島県単独紙だった同社の本社は爆心地から約900メートル、現在の地名では中区胡町(当時の住所表記では上流川町)にあった。
原爆投下時、本社内で執務中または出勤途中だった社員100人余りが瞬時に絶命した。同社創業家の3代目で後に社長を務めた山本朗(1919~97年)の回想録によると、中国新聞社は被爆後、朝日、毎日、島根新聞(山陰中央新報の前身)に代行印刷を依頼する一方、戦況悪化に備えて輪転機1台を安芸郡温品村(現在の広島市東区)の牧場に疎開させており、9月3日から「温品版」の発行を開始した。
さらに「本社の総務、業務、編集の一部は、松田重次郎社長の好意により(府中町の)東洋工業医務室を提供してもらい、8月25日に移っていた」としている。
ラジオ放送、新聞という当時の2大メディアをはじめ、県庁の一部や控訴院(現在の高等裁判所)、地裁、控訴院検事局(同高等検察庁)、地裁検事局(同地方検察庁)などが被爆数日後から翌年にかけ、府中町や向洋地区にあった東洋工業の施設内で仮住まいをしていた。マスコミや行政、司法の「戦後」はここから始まったのだ。
三輪トラックの生産を決意するも……
被爆後の混乱が収まらぬ中、東洋工業の経営陣は事業再興の道を模索していた。戦前戦中に不本意ながら手がけていた兵器製造から晴れて脱却できるが、その間膨張した従業員の問題がある。大量の整理・解雇は避けられないとしても、残った人員が食べていけるだけの仕事が必要になる。
藝備銀行(現在の広島銀行)の行員から重次郎の秘書としてスカウトされ、後に経理担当・総務担当の専務になった河村郷四(1902~85年)の回想によると、終戦時に東洋工業は、雇用していた従業員が約7000人、学徒動員などで働いていた者が約3000人、合計約1万人の人員を抱えていた。
専務の松田恒次は、会社存続のため、かつての主力製品である三輪トラックの生産を再開する決意を誰よりも早く固めていた。
「広島の街の復旧は急務だが、物資の輸送が思うに任せない。一刻も早く工場再開のメドをつけ、三輪トラックの供給を始めなければ」
恒次の心は逸るが、資材・部材は手元になく、調達先のメーカーが生産を再開しているかどうかも現下の通信事情では確認しようがない。
いたずらに時間が過ぎて行くばかりの状況に矢も盾も堪らなくなった恒次は、終戦から1カ月後の9月15日、後に「枕崎台風」と名づけられた暴風雨の襲来予報が飛び交う中、購買課長(後に東洋工業常務)の鴉田峰雄を引き連れ、福岡県久留米市にあるブリヂストン(当時の社名は「日本タイヤ」)のタイヤ工場を訪ねる。
鴉田はこの時の状況を以下のように振り返っている。
「運悪く(久留米)駅についたら大暴風雨でした。工場は操業しておらず、街なかにあった同社の寮を事務所に流用しておられたので、そこへやっとたどりついて生産再開のためのタイヤ供給の約束をとりつけました」(『一隅を照らす』)
ブリヂストン創業者の石橋正二郎(1889~1976年)はマツダの三輪トラックについて開発当初から相談を受け「丈夫な特殊タイヤ」を納入していたと回想している。そのブリヂストンからタイヤ供給の約束は取りつけたものの、先方の様子に恒次は落胆を隠せなかった。「相手(ブリヂストン)はまだ敗戦の虚脱感がぬけきらず、休業している状態であった」と後に語っている(『私の履歴書 松田恒次』)。
台風は17日に鹿児島県枕崎町(現在は枕崎市)に上陸する。広島への帰路、恒次と鴉田が乗った列車は引揚者や復員軍人で立錐の余地もないうえ、暴風雨で「一寸刻みに走っては止まりする状態」だった。
終戦1年前の8月に上り線が開通したばかりの関門トンネルは抜けたものの、山口県の下松駅でついに列車は運転を停止。このため、恒次はかねて親交のあった東洋鋼鈑下松工場長(後に社長)の横山金三郎に頼んで同社の寮に宿泊させてもらった。しかし、3泊しても山陽本線は復旧しない。結局、横山の好意で下松から東洋鋼鈑の船を出してもらい、なんとか広島に帰り着いた。
翌日、恒次が出社すると、商工省から呼び出し状が届いていた。産業機械課の旧知の官僚からだった。
「時局混乱を極め、先行きの見通しが立たないが、これは行かずばなるまい」
この年、恒次は50歳。左足に義足を継いだ身体での旅は難渋を極め、久留米往復の疲れも残っていたが、果断に上京を決意する。