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「年を重ねることで人は深く、美しくなることを知りました」

「だんだんいろいろなことが出来なくなり、生きているだけでもしんどくなる。人が老いていくことは無残ですが、でも、年を重ねることで、人は深く、美しくなっていくということも知りました」

 ドキュメンタリーディレクターとして、過激派、右翼、ヤクザなど、どんな相手の懐にも飛び込んでいき、「信友マジック」と呼ばれる瞬間を撮ってきた信友さん。

「私にとって撮影は、取材相手の心理の奥底まで一緒に潜って宝物を探すようなもの。被写体は運命共同体なんです。本人も気づいていなかった感情や言葉を引き出せたときは嬉しいですね。

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 今回の撮影も、娘としての自分と、映像ディレクターとしての自分の間で揺れる場面は多々ありました。思わず助けに行こうかと思って寸前で踏みとどまった場面では、カメラが揺れているのがわかります。でも、両親には私に対する絶対的な信頼感のようなものがあって、母の姿を全国に放映してもいいか尋ねたときも、母は『ええよ。直子なら悪いようにはせんじゃろ』と言ってくれました。でも、両親には、私のために役に立ちたい、という気持ちだけでなく、もうひとつ別の思いがあったように思うのです」

「信友マジック」と呼ばれる瞬間を撮ってきた信友直子監督 ©萩庭桂太

 父も母も、家庭の事情により遅い結婚で、子どもを授かったのは望外の喜びだった。信友さんの年代では、地方から娘を東京にやる親はまだ少なかったが、ふたりは迷わず東大に合格したひとり娘を東京に進学させた。

 良則さんは、三高(今の京都大学)で言語学の勉強をしたいという夢を持っていたが、父親が急死し、妹ふたりを養うため、受験をやめて働かざるを得なくなったという。映画の中で良則さんが口ずさんでいる鼻歌は、三高の寮歌だ。やがて太平洋戦争が激化し、陸軍に徴兵され、敵性言語である英語を学びたいなどと言える雰囲気ではなくなっていった。

「昔の父は寡黙で、結婚前は厭世的な気持ちに囚われることがあったようです。『優秀なやつらが死んで、わしが生き残っているのが申し訳ないと、戦後ずっと思うてきたんよ』と言っていたこともあります。そして、自分のやりたいことが出来なかったことが無念で仕方がない、娘にはそういう思いは絶対させたくない、と常日頃から言っていました。

 今でも父が毎日、新聞を4紙読み、わからない言葉を辞書や英和辞典で調べているのは、『やり残したことがある』という思いからなんだと思います。母も、今の時代だったら、きっとクリエイターになっていただろうと思うような人でした。きっと、父と母には、信友家に流れる“表現者魂”のDNAのようなものがあって、私と一緒に映画を作ってくれたんじゃないかと思うんです」

父を突き動かす“表現者魂”のDNA