90年代の1度目のブレイクを経て、00年代にブログ経由で再ブレイクしたタレントのルー大柴(68)。「藪からスティック」「寝耳にウォーター」といったルー語は、いまや老若男女を問わずすっかり定着している。 

 そんな彼に、ルー語の意外な原点や複雑な生い立ち、高校卒業するや敢行したヨーロッパ放浪などについて、話を聞いた。 (全3回の1回/2回目を読む)

ルー大柴さん 

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「ルー語」の原点となった、10代の頃の出会い

ーールーさんは、中学くらいから俳優を目指していたそうですね。 

ルー大柴(以下、ルー) ええ。芸能の世界に憧れていたし、外国の映画がすごく好きだったので。体中でなにかを表現したい、閉じこもっていられない衝動に駆られていて。だから、中学を卒業したら旅芸人になろうと考えてたし、海外にも行こうと決意してました。 

ーー中卒で旅芸人になりたいと言い出したルーさんを案じたお母様が、映画評論家の淀川長治さんに“息子を説得してください”と手紙を出したら返事が届いたという。 

ルー とにかく俳優になりたいというエネルギーがすごかったんですよ。ちょっと狂気じみていたというかね。あんまりにもすごいもんだから、母親もどうしたらいいのかわからなくなって。その時に、たまたま淀川さんが解説をやられていた『日曜洋画劇場』を見てて、「ああ、この人だったら俳優のことも知ってるはず」と手紙をテレビ局に送ったらしいんですよ。 

 僕はそんなこと知らなかったし、母親も返事がくるなんて思ってなかったらしいんですけど、淀川先生から手紙をいただいて。それで学校から帰ってきたら、母親が「ちょっと座りなさい」って手紙を見せて。 

 走り書きで「これからの俳優は、高校や大学を出ていなきゃだめですよ。外国を見ることはすごく大事だけど、まだその状況じゃないです。お父さん、お母さんが、ちゃんと説得してあげなきゃいけませんよ」みたいなね。あの淀川さんから手紙が届くなんて、藪からスティックだし寝耳にウォーターじゃない。 

 まぁ、淀川先生の進言もあって、僕も「高校に行こう」「もうちょっと待つか」と。で、立教高校に進んで、演劇部に入って、すこし落ち着いたんですよ。でも、高校1年から海外に行きたい思いがまた沸々とね。 

ーーその高校時代、ルー大柴というキャラクターやルー語のルーツと呼んでもいいガールフレンドがいたと聞いています。オーバー・アクション気味で、英語と日本語のミックスで話される方だったそうですが。 

ルー 万里子ちゃんですね。高2で出会って。お父さんが外資系の会社に勤められている方でね、シンガポールに1年くらい住んでたんですよ。帰ってきてからはアメリカン・スクールに通ってたんですね。 

 

 僕の父親は日本人だけどハルビン生まれで、英語もロシア語も中国語も話せたから、話し方や身振り手振りが外国ナイズされてたんですよ。なにかとハグしてきたりね。そんな父親が子供心にもちょっと気持ち悪いと思ってたんですけど、やっぱり僕も父親の影響を受けていたこともあったから。 

ーーそれもあって、万里子さんには惹きつけられたし、影響も受けられたと。 

ルー もう高校生ですから、女性と出会う機会も多くなってたし、他にもガールフレンドはいましたけどもね。そのなかでも彼女は、「あたしはユーが好き」なんて英語と日本語のトゥギャザーで話すし、非常に頭のいい方だったんでね。影響は受けましたね。