「ひとりの時間がほしい」とヨーロッパ放浪へ
ーーヨーロッパ放浪は1973年に高校を卒業してすぐのことですが、その動機には家業を継ぐか継がないかに嫌気が差していたのもあったのですか。
ルー 若い時に外国に行って、いろんなことをちょっと吸収したいなという野心は小さい頃からあったんでね。
それと、高校に入って、家の中がそういうことでぐちゃぐちゃになりかけてたし。母親も父親も昔は仲が良かったのに、だんだんと考え方がちぐはぐになって険悪になっちゃってたりして、なんだかいたたまれない気持ちで家にいたんですよね。まぁ、結局ふたりは離婚しちゃったんですけどね。
日大芸術学部に入って芝居を勉強すればいいじゃないかとか、劇団に入ればいいじゃないかとか言われたり、そんな話を祖父や親とはしましたけど、僕としてはちょっとひとりの時間も欲しかったところもあったというか。
でも、家族を嫌ってたわけじゃないですよ。最終的には「まぁ、おまえの人生だから」と、みんな総出で空港まで送ってくれました。
ーー1970年代初頭当時、日本人はヨーロッパの国々でどのように見られていると実感されましたか?
ルー 僕が最初に行ったのがイギリスで、ロンドンにもちょっといた。チャリング・クロスという街で下宿して、英会話の教室に通ったんですよ。まぁ、教室に僕以外にも2人くらい日本人がいたのかな。でも、イエローだとか言われたり、差別をされたりはなかったですね。
ただ、後でヒッチハイクして、いろんな国のユースホステルに泊まるじゃない。そうすると日本人もいらして、差別を受けたとかは聞きましたね。僕はされなかったですね、そんなに。
ーー自伝を読むと、放浪中のルーさんは何事にも物怖じされていないんですよね。車に乗せてくれた方の家に泊まったり、ヘルシンキでは現地のモデル女性と恋仲になって1ヶ月ほど同棲したりと、非常にポジティブで。それゆえに、差別されていてもあまり気づいていなかったなんてことはないですか。
ルー 日本にいた頃はそんなでもなかったんですけど、イギリスの下宿先のおじさんに「Yes or No」をはっきりしろと注意されてね。よくあるじゃないですか、外国の方に対する日本人の態度みたいなの。とりあえず「Yes、Yes、Yes」とだけ答えて、ニヤニヤしてたりするじゃない。
僕、あれがすごく嫌いだったんだけど、あちらに行ってみたら自分もそうだったんですよね(笑)。あんまり聞き取れなくて、最初はそうなってたの。