それで下宿先のおじさんに、「これからいろんなカントリーに行くのはいいけど、嫌なものは嫌だと言い切れないと馬鹿にされるぞ」と言われたんですよ。ニタニタしながら「Yes、Yes」なんてやってるから「こいつ、馬鹿なんじゃないか」「やっぱりイエローか」と差別されるんだって。そこからハッキリと言うようになったんですよ。
実際、どこの国の方でも「ああ、ちゃんとYes、Noが言えるんだな」「こいつは馬鹿にしちゃいけないな」と信頼されて。物怖じしないとか、そういうことでもないんだろうけど。ようするに、ワン・パーソンとして認めていただいたという感じがします。
お手製のアクセサリーで旅費をまかなった「バイタリティ」
ーーとはいえ、お金に困ったら馬蹄用の釘(ホース・ネール)でアクセサリーを作って、売って、数十万円を稼いだりしていて、ものすごいバイタリティに溢れていたんだなと。
ルー その当時はパーミッション、労働許可証を持ってないと捕まる可能性があって。皿洗いでもしようかなと考えてたんだけど、労働許可証を持たずに働いて、捕まったら強制送還になっちゃうんで。
どっかで働くのもできないので、露天商みたいにアクセサリーを売りながら「これからどうしようかな」って、1年弱ヨーロッパを周ったんですよ。
ーー放浪中の写真を見ると、風貌がまさにヒッピーですよね。羽田空港で見送りに来てくれたご家族と一緒の写真ではネクタイを締めてピシッとされてますが、放浪中は長髪とヒゲになっています。
ルー 最初はイギリスで学校にも行ってたからね。ヒッピーというか、自分探しの旅だったしね。まぁ、ピンク・フロイドの「Money」とか聴きながら、アクセサリーを作ってました。
ーー日本に戻られてからも、「Yes or No」をはっきりさせるマインドは貫かれてきましたか?
ルー 部分的には。でも、やっぱり、日本社会というのは上下関係があるから。
ヨーロッパの後、少ししてアメリカにも行って。で、日本に帰ってから俳優の学校に入ったら三橋達也さんの付き人にならないかって誘われたんですよ。「俳優になるなら、付き人になるのが近道だよ」って言われて。
それで三橋達也さんの付き人になったけど、その時にギャップを感じたというのかしら。「俺が俺が」というんじゃなくて、人に付くということでいろいろと学ばせてもらうこともあるんだと感じたんですよ。
それに、三橋さんと僕の年齢差も大きかったしね。だって、うちの父親と同年代くらいの役者さんで、しかも三橋さんもシベリヤで抑留されてたので。ただでさえ付き人なのに、そういうのもあるから「俺が俺が」ってのはちょっとできませんでしたよね。
写真=石川啓次/文藝春秋