ティルザ、スカイ、ナオミは、「お芝居」「ショー」「フリ」「らしい」などの言葉を使っている。良き母と認識されるために、「母に求められる感情とそれに応じた行動」を実行してみせる必要があるということだ──すべての母親が真似しなければならない、単一の母親像が存在するかのようである。
違和感を持ちながら「良き母」像を肯定してしまう
彼女たちは、母や祖母として自分に期待されていることに完全に違和感を持ちながら、義務感から規範的な母の感情や行動を模倣していると説明している。模倣とパフォーマンスという、後悔していない母も後悔する母も実践する戦略は、女性の育児の話題では考慮されない傾向にある。
それは主に、母が育児をするのは自然であり、母らしい行動は女性の本性の一部と認識されるからである。しかも、母になるだけでは十分ではない。母の「正しい」子育てを、行うだけではなく、見せる必要があるのだ。
フランスの哲学者フランソワ・マリー・シャルル・フーリエによれば、抑圧的な政権が支配するところには必ず、虚偽がある。実際、私の研究対象の母たちの告白は、母親像に厳しく求められる感情の規制に自分を合わせるために、「正しい」母親の感情や行動を演じていることを示している。これについて、バリは次のように表現している。
・バリ…1~4歳の1人の子どもの母
「お母さんになった気分はどう?」とたずねられると、私は無理に笑顔を作ります。だって、私に何が言える? 自分が惨めだと? 大変だと? 自分にママが欲しいと?
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個人的なレベルでは、波風を立てないために虚偽を自己防衛機制として使うことができるかもしれない。しかし社会的レベルでは、そうすることで、母としての「自然」な感情や行動についての幻想を是認してしまうのだ。
・マヤ…2人の子どもの母。1人は1~4歳、もう1人は5~9歳で、取材時に妊娠中
娘が生まれた直後、おじやおば、子どもがいる友人全員が、〔子育ての〕難しさややりがいについて話し、私に向かって「でも、嬉しいことだよね?」と言ったのを覚えています。私は、「ええと……はい……素晴らしいことです……本当に……」と答えました。
〔……〕私の気持ちは、誰にもわからないでしょう。私は立派な母ではないかもしれませんが、母として子どもたちの世話をしています。栄養と愛情を与えています。子どもたちは、感情的なネグレクトを受けていません。だから、誰にもわからないのです。私の気持ちを知る人がいないのだから、他の人の気持ちを知ることだって不可能です。