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 母はまだ幼くて、新婚当初は世間のことを何も知らなかったはずです。父の“いいなり”だったかもしれません(笑)。情報がない時代ですし、周りに同じ境遇の人もいないので、相談することもできない。頼れるのは父ばかり。結婚式の翌々日、新婚旅行で湯河原に行ったのに、父が芥川賞の贈呈式に出席するために1人上京し、旅館に取り残された母が途方に暮れたという話があります。いかにも、当時の母のようすを物語っていると思います。

新婚生活で父は家に帰ってこない

 母の父母の実家はそれぞれ地元の名士だったようで、早くに両親を亡くしていた母も親戚の援助を受けながら貧困に窮するようなことは無かったようです。私立の高校に通っていたので、そのまま大学受験するのも可能だったでしょう。それが父と結婚したので進学をあきらめざるをえなかった。当時の心境を「お友達は学校に行っているのに、私だけが徒手空拳の新妻になった」と書いていたようです。

若き日の典子さん

 そして新婚生活が始まりますが、父は家に帰ってこない。20代で映画の脚本、監督から主演もこなす売れっ子作家。父の名誉のために、「社交で忙しかった」と想像するにとどめておきますが(笑)。

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 父は根っからのアーティストですから思いついたら行動せずにはいられない。私も画家の端くれですので、とんでもないパワフルなアーティストの知り合いがたくさんおります。若かりし頃の我が父上もあちこち飛び回って、やりたい放題だったことでしょう。

 とにかく仕事は忙しかったようです。結婚した年に、「文藝春秋」に掲載された「ぼくの撮影所日記」という記事を読むと、その時の目まぐるしさがわかります。連日ホテルに缶詰めになって、映画版「狂った果実」の脚本を2晩ほどで書き上げた翌日には監督から撮影所に呼び出され、自ら脚本を書いた映画「日蝕の夏」の主演を依頼される。毎週のように映画の脚本を書き、そのうえ連載をいくつも抱えていたようです。

誕生日会での石原夫妻

 こんな調子で日々を送る父はどの程度家庭をかえりみていたのか。子煩悩に息子たちをあやす父の写真は多く残されていますが、はてさて真相は如何に。当時は逗子に住んでいましたが、母は家に残って姑である祖母と一緒に赤ん坊の面倒を見ながら、何を思っていたのでしょう。

 女性が「家内」や「奥さん」と当たり前のように呼ばれた時代、母もまたその言葉の通り、家を守って日々過ごしていた。ただ、その一方で作家からやがて政治家になり、変貌を遂げていく父を通して、世間知らずだった母は徐々に社会のことを知っていったのでしょう。

石原延啓氏の手記「父・慎太郎と母・典子」の全文は、「文藝春秋」2022年5月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

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