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「ただの枝のカシラではなかった」高山の存在感
高山自身、弘道会の前身組織に所属していた若手のころは武力行使をいとわなかったという。
高山は20歳のころの1967年に弘道会の前身である山口組弘田組の傘下組織に加入。その後、後に弘道会会長から6代目山口組組長の座を手にする司と出会う。司とともに群雄割拠の名古屋を中心にした中京地区の暴力団社会の平定に乗り出した武闘派であり、結果として対立抗争事件で長期の服役も経験している。
1984年には司が結成した弘道会の若頭補佐に就任。1989年に弘道会若頭に昇格して暴力団業界で広く名が知られるようになる。
弘道会が山口組内で影響力を増していくにあたり、資金不足にあえぐ他の2次団体の幹部らに気前よく融通するなど、山口組内での勢力拡大にも余念がなかった。高山は「武闘派ヤクザ」であるとともに、資金力がある「経済ヤクザ」としても知られ、暴力団社会で大きな存在となっていったのだ。
当時を知る警察庁幹部は、高山について次のように指摘する。
「高山は直参となる前までは、弘道会の若頭だった。暴力団業界の用語で言ってみれば『枝(2次団体)のカシラ』程度ということになるが、『高山』という名前は暴力団業界だけでなく、警察の幹部を含めて誰もが知っていた。ただの枝のカシラではなかった」