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「中学時代の自分に言ってあげたい…」ボクシング・村田諒太が死闘の直後に向かった池袋の“意外な場所”

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 前WBA世界ミドル級スーパー王者の村田諒太(36)はこう語り、涙を拭った。

「ほんの少しだけ自分のことを評価してもいいかな」

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 4月9日、さいたまスーパーアリーナで村田が拳を交わしたのは、現役最強ボクサーと称されるIBF世界同級王者、ゲンナジー・ゴロフキン(40)だ。

「前半は村田のボディが効いていたが、中盤からゴロフキンが攻勢をかけた。9回に右フックが村田の顔面に炸裂。タオルが投入されました」(スポーツ紙記者)

プロ初のダウンを奪われた村田諒太

「ヤンチャな不良少年だった」村田の原点

 奈良県出身の村田がボクシングジムの門を叩いたのは、中学生の頃。不良少年だった村田を見かねた担任教諭が、奈良工業高校(当時)の主催するボクシング教室を見つけてきたのだ。

 当時の同校ボクシング部監督でリオ五輪ボクシング競技監督を務めた高見公明氏が村田の原点を振り返る。

「髪を金髪に染め、ヤンチャでしたが、今とは違って身体が小さかった。結局、練習がきつくて、2週間で逃げてしまった」

 03年、南京都高(当時)3年の村田は全日本選手権ミドル級で決勝に進出した。

「私が『お前のほうが絶対上やから。自信持って行け!』言うても、あの頃はビビってましたね」(同前)

 だが、次第に村田の能力は開花する。12年にロンドン五輪で金メダルを獲得後にプロデビュー。以来、目標に据えていたゴロフキンとの世紀の一戦が決まったのは昨年のことだった。

コロナの影響で試合が延期になり…

「当初、試合は昨年12月29日の予定でしたが、オミクロン株の影響でゴロフキンの来日が困難になり、延期が発表されました」(前出・スポーツ紙記者)

 村田諒太後援会会長の近藤太郎氏が打ち明ける。

「発表直後に電話で話したとき、プツッと気持ちの糸が切れたような感じがしたので関西からも仲間を呼び、イタリアンレストランで激励会を開いたんです。彼は『さすがに(メンタルが)やられますよ』と言い、すごろくに例えてこんな話をしていた。『5の目が出たらゴールやったのに、4が出た後、今度は100戻るが出た。そんな気持ちです』と」

 一切アルコールを絶っていた村田だが、その日ばかりはワインを飲んだ。午前4時頃に散会する際、村田は「また明日から禁酒します」と決意を新たにした。