クレイジーケンバンドの傍ら、横浜の大黒埠頭で輸出品の検査を
野宮 剣さんも、クレイジーケンバンドで本格的にブレイクを果たすまでは、ちゃんとした正業を持っていた時期があるんですよね。
横山 ええ。クールスRCを脱退して以来、ダックテイルズ、ZAZOUといったバンドでメジャー契約を得てきましたが、その間も身を立てる仕事は別に持っていたりしたし、94年からは、スイス系の企業に、サラリーマンとして8年間ほど勤めました。
野宮 どんなお仕事だったんですか。
横山 日本から輸出する品物を、横浜港の船積み前に検査するんです。本来は輸入する側の国の税関が目を光らせるはずなんだけど、お国柄によっては、肝心の税関のスタッフに信頼が置けなかったりする。その代わり、僕のいた会社があらかじめチェックを請け負って、商品を受け入れる国では検査を省略するという仕組みなんですよ。
野宮 ということは、90年代末にクレイジーケンバンドが最初に注目を浴びた頃は、まだ会社員だったんですね。ちょっと意外。
横山 そうなんです。バンドで活動する傍ら、昼間は、インボイスに記された商品数に誤魔化しがないか照合したり、輸出品が液体なら品質に問題ないかをテスターで確認したりしていました。
野宮 横浜ならではのお仕事ですね。
横山 振り返ってみても、自由な音楽制作の環境を勝ち得るため、自分が自分のスポンサーとなって別の仕事を持って働くことは、精神衛生上、とても健全でしたね。あの経験がなければ、CKBの今はなかったかも。
野宮さんとご一緒した時は、俺もついにここまで来たかと
野宮 ピチカート・ファイヴに関しては、どういう印象を持ってました?
横山 佐々木麻美子さんが初代のヴォーカリストを務めていた80年代半ばから、ずっと気になる存在でした。田島貴男さんが2代目のシンガーに就いた時は、自分が心の奥で理想として描いてきたサウンドが見事に実現されちゃったので、嫉妬を感じて唇を噛み、もう音楽活動を辞めようかと真剣に思ったぐらい。
野宮 辞めなくてよかったです(笑)。
横山 そっすねぇ(笑)。90年に野宮さんが3代目のヴォーカリストとして加入してからのピチカートは、さらにグッとくる音楽性へと進化を遂げ、もはや嫉妬すら放棄するしかないレベルまで到達しました。
野宮 私と剣さんが初めてデュエットしたのは、ピチカートの末期でしたね。