“渋谷系の女王”こと野宮真貴さんが、デビュー40周年を記念したニューアルバム『New Beautiful』をリリースした。ここに収録されたナンバーの一つが「おないどし」。クレイジーケンバンドの横山剣さんとのデュエット曲だ。そのタイトルの通り、野宮さんと剣さんは1960年生まれの同い年。しかも、レコードデビューを果たしたのもまた同じ1981年という同期生。同じ時代を生きてきた二人が、音楽、ファッション、カルチャーについて語り合う。(全2回の2回目/1回目を読む)
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1年で契約が切られ、日本橋高島屋の美容部員に
横山 僕が最初に野宮真貴さんの存在を認識したのは、ポータブル・ロックの頃。
野宮 ポータブル・ロックは、中原信雄君、鈴木智文君と私が結成していたバンドですね。デビューしたのは1983年のことになります。
横山 僕はプラスチックスが好きだったんですが、佐藤奈々子さんのいたスパイとか、そういうセンスのいいお洒落な系譜に連なるバンドとして、ポータブル・ロックに注目していました。それ以前、81年の段階ですでにソロデビューを果たしていたことは、失礼ながら、後になってから知ったんです。
野宮 無理もないですよ。何しろ売れませんでしたからね(笑)。
横山 ファーストアルバム『ピンクの心』は、ムーンライダーズの鈴木慶一さんがプロデュースを手がけた名盤として評価されています。
野宮 でも、1年でレコード会社との契約が切れちゃって。その時は、友達に誘われて、日本橋高島屋1階のマックスファクターで、美容部員としてアルバイトしたことがあるんです。たった1週間だけでしたけど。
横山 美容部員、なかなか似合いそうですね(笑)。
野宮 なかなか面白い経験でしたよ。その後、生計を立てるメインの仕事になったのは、CMソング。ポータブル・ロックとしての活動の傍ら、いろんな曲を歌ってました。
横山 そうだったんですか! 野宮さんの知られざる過去が次々と明かされますね。
野宮 80年代は、広告業界が最も派手な時代だったんで、次々と仕事が回ってきました。恐らく、私のギャラは一番低いランクだったと思うんですけど、だからこそ使い勝手がよかったんじゃないかな(笑)。
横山 じゃあ、かなり需要があったんですね。
野宮 私のこの声が、どんな商品にも合ったのかもしれません。
横山 確かに、いい意味で肉体性を感じさせない無色透明な野宮さんの声は、クライアントを選ばない。