負傷者を筏にしばりつけろ
「――これからの指揮は私がとる。ボートを出したり勝手な行動はいっさい許しません!」
でっぷり太った〈暁天丸〉の船長は、陸軍の将校に向かって厳然と言い切った。そのことばは、海に長く生きてきた男の誇りと自信に満ちていた、ただあわてふためいているだけで何もできない陸軍とはいい対照だった。
「まだ船は30分は大じょうぶ沈みません、負傷者と病人を早く筏にしばりつけてそれが終わったら退船――とにかく船から50メートルはなれてください」
突撃ラッパが吹かれたのはその直後だった。
「ボートとイカダは負傷者を乗せろ! 元気な者はボートに乗るな! あわてることはない!」
「本船はまだ30分は沈まない、負傷者をイカダにしばりつけろ!」
名前もわからないが、でっぷり太った〈暁天丸〉の船長は必死に叫び続けた。それをまのあたりにみているうちに、小出勇三一等兵(埴科郡戸倉町)と山田智一等兵(諏訪市長地)はただうろたえていた自分が心から恥ずかしくなってきた。「おちつけ! おちつくんだ! これじゃ陸軍の恥だ!」船倉からの悲鳴と騒音の中で自分にそう言いきかせ続けた。
彼らは中隊を離れて、昨夜来上甲板の司令室に勤務していたが、魚雷を食った瞬間、通信機能が停止してうろたえていたのである。そのわずかの間にみた海の男――〈暁天丸〉船員たちのあの腹のすわった機敏な動作に二人は今さらのように目をみはった。しかし時は一時の猶予もなかった。「オレたちももうこうしちゃいられない、負傷者をかつぎだそう!」「うん!」と山田上等兵が答えた。その時である。第二発目の魚雷が命中してまっかな火柱を高く吹き上げた、瞬間二人は甲板にたたきつけられていた。バリバリと船体のきしむ音が同時だった。
ふたたび起きあがったとたん、こんどは異様な物体(?)が小出一等兵にしがみついてきた。見れば先ほどまで艦橋で機関銃小隊を指揮していた若い見習士官だった。顔が半分むしりとられて血が吹き上げていた。それでもまだ生きようとするのであろう。両手で強く抱きついてはなさなかった。二人の全身は鮮血でべっとりとなり、そこにくずれ折れた。山田智一等兵がかけつけて、通路から司令室にかつぎこみ、
「小隊長殿、しっかりしてください」
二人がいくら呼んでももうこときれていた。凄惨とも悲壮ともいいようのない一瞬だった。
二人は思わず合掌したがその時、急に船体が大きく左に傾いて二人は壁に倒れかかっていた。
鷲沢勇次兵長(北安曇郡小谷村奉納)が石炭粉でまっ黒の顔に血を流してかけ込んできたのはこの時であった。
「おい! えらいことになったな」
「もうオレたちもこうしてはいられない。早く逃げよう!」
三人はもう一回合掌すると、司令塔をとび出し、最後まで大事にもっていた、天皇陛下からさずかった生命より大事なはずの重い兵器〈てき弾筒〉を海に捨てた。もう何の感慨も湧かなかった。
【続きを読む】「何だかだまされているような気がする…」補給の途絶えた島に取り残された極限状態の兵士は“終戦”の瞬間に何を思ったか