泥棒が捕まり、すべてのものが押収されてから、私はそれを東京の四谷の近くの警祭署に受け取りに行った。おかげで私は少し恥ずかしい目に遭った。
泥棒が持ち出したものすべて(歪んだザルから、かなり古びたトイレのスリッパまで)が警察の会議などに使われているような部屋に雑然と置かれていて、私はそれら一つ一つをわが家のものかどうか確認させられたのだ。私は一家の主婦だったから、すべての雑物に記憶があり「はい、うちのものに間違いありません」と言わねばならなかった。
その人がそんな古物を盗んだ理由はすぐわかった。彼は刑務所を出たばかりだったが、お金がないままに生活を始めねばならなかったのだ。警察の人は人情的で「冷凍庫の中にステーキ肉があったって?」と私に聞いた。「持ち出した後で、浜辺で、その肉を焼いて食べたら、実においしくて、こんなおいしい肉がこの世にあったかと思ったんだそうだよ」ともつけ加えた。
それほどの喜びを人に与えたのだろうかと思うと、私は不思議な気になった。確かにあの肉は少し上等だった。しかしとにかく私はそれまで、それほどに人に喜ぶことをしてあげたことがないような気がしたのだ。
今は古物など、どこでもほとんど売れない。欲しがる人があまりいないのだ。だから盗んでも売るのに手がかかって意味がないのだ、という人もいる。
泥棒という行為は、金銭的にも社会的にも、末永くこれほど「合わない」行為はない、と言えることなのに、それを教える人はいないのだろうか。