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1944年7月11日には、総員約1万3000名の兵員を輸送する特別輸送作戦が実施された。その前日、7月10日がケービンにとって最後の通常ダイヤでの運行だったという。それからのケービンはすっかり軍事目的の鉄路に変わってしまった。
そして1944年10月10日には空襲によって那覇駅が大破。それでも1か月後に運転を再開し、引き続き軍事輸送に従事し続けた。年の瀬の12月11日には、運んでいた武器弾薬が爆発し、兵員210名の他に職員3名、女学生8名が犠牲になる痛ましい事故も起きている。
1945年、むかえた「ケービン最後の日」。そしてやってきたアメリカは…
そして年が明け、1945年。時代が沖縄戦へと突き進む中、ケービンにも最後の日が迫ってきた。嘉手納線は3月23日頃、与那原線と糸満線は3月28日頃が最後の運行だったという。そして4月1日、米軍が上陸。本格的な沖縄戦がはじまった。
結局、ケービンは沖縄戦によってほとんど完全に破壊されてしまった。そして戦後、沖縄はそのまま米軍の統治下に入る。
米軍はケービンを復活させることなどつゆほども考えず、物資の輸送にはトラックを使っていた。道路事情の悪さから、東京の連合軍総司令部からケービン復旧の提案がされたこともあったようだが、沖縄ではまともに捉えられなかったようだ。
長距離輸送ならともかく、比較的短い距離の輸送に留まっていたケービンを復旧させても意味がないというのは、いかにもアメリカらしい発想だ。さらに朝鮮戦争もはじまるとレールや車両などに使われる鉄は貴重な戦争資源。そうなっては、ケービン復活の目はもはやなく、戦後の沖縄は鉄道ではなく道路整備最優先の方針が定まったのである。