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返還から50年…沖縄を走っていた“ナゾの鉄道”「ケービン」が消えた理由

最果ての終着駅#2

2022/05/15

genre : ニュース, , 社会

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“ドル箱路線”だった「与那原線」…なぜ?

 なかなか経営状況の優れなかったケービンの中で、与那原線だけはお客が多く、黒字を生んでいた。というのも、もともと与那原は離島や国頭地方の薪や炭などの物資が水揚げされる要港で、一大消費地であった那覇と与那原の間にはケービン開通前から盛んに荷馬車が行き交っていたという。

 さらに与那原から北に向かって馬車軌道が延び、サトウキビの輸送などを行っていた。そういった事情もあって、人はもとより物資輸送で与那原線は賑わったのであろう。

 嘉手納線は那覇駅のすぐ隣、古波蔵駅から北に向かって走る。今ではひめゆり通りと呼ばれる通りは、かつて嘉手納線が通っていたところだ。いまは同じ所をゆいレールが通っている。ケービンとゆいレールが同じ場所を走っているのは、ひめゆり通りの一部だけ。いわば、歴史のつなぎ役といったところだろうか。

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 その先はパイプライン通りと呼ばれる道に沿って北を目指す。道路工事に際して発掘されたというレールが、その道の脇にちんまりと展示されていた。

 さらに要港の牧港などを経て、普天間基地や嘉手納基地の脇を抜け、廃線跡は終点の嘉手納駅へ。

 その場所は、嘉手納基地のすぐ脇の、沖縄防衛局の目の前にあった。「嘉手納駅跡地」と書かれた立派な石碑も置かれている。

 ……が、これといった痕跡はほかになく、せいぜい周辺の市街地はかつての駅前の市街地だったのだろうかと想像するのが精一杯である。

 

 糸満線も追ってみよう。糸満線は、国場駅から与那原線と別れて大きく蛇行しながら南へ、糸満駅を目指した路線だ。こちらもほとんど痕跡は残っていない。わずかに畑の中に橋台の残骸があって、私有地の中なので近づいて見ることはできなかったものの、何でも弾痕なども見られるという。