20歳で家出、22歳で夜行バスに乗り、大阪・西成へ。そこから4、5年の間、日雇い労働を中心に職を転々。2017年には生活保護を受給するが、2カ月で受給をやめる……。子どもの頃から「継続」することが苦手な“かっちゃん”は、今もホームレス状態で、日雇い労働、束の間の遊興、そして、生活保護の受給を繰り返している。
かっちゃんは、何を考え、どのように日々を過ごしているのか。ここでは、社会的弱者の取材活動に取り組む中川波佳氏が、かっちゃんのモノローグをまとめた『人生、しばしばホームレス』(さくら舎)の一部を抜粋。貧困にあえぐ男性のリアルな声を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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労働者生活の始まり
2001年の2月か3月、22歳、夜行バスかなんかで大阪に行った。なんの計画性もないし、部屋借りる金もなかったけど、十三に行ってたっていうこともあって、 「なんとかうまいこと生活できるやろう」と思って行った。 「大阪で一旗揚げる」みたいな感じやった。
まあビジョンもなんもないから、お金増やして生活するために、またパチンコとかスロットした。徳島で最後に働いたお金もなくなって、 「さてどうするか?」ってなって歩いた。なんでか知らんけど南へと下ってった。
西成のほうに歩いて、 「これどこやねん?」とウロウロして新今宮駅前の労働センター(労働センターとは、あいりん総合センターの建物内にある「あいりん労働福祉センター」のことで、大阪市西成区の日本最大日雇労働者の街・あいりん地区[通称・釜ヶ崎]にある仕事を求める日雇労働者と求人業者が集まる「寄せ場」 。仕事にあぶれた人たちの休憩所でもある。1970年に建てられ、2019年に脆弱な耐震性を理由に閉鎖)に着いた。
「行くとこないんやったらウチ来るか?」
労働者の格好したおっちゃんらがようけおったから、 「これなんや? これなんの集まり? なんでこんなおっちゃんら多いねん」と思った。
土方の仕事着着て、そん時はなんも知らんかったけど、安全帯とか職人が着けるようなやつ着けてたり、ヘルメットしてたり。そんなん見たことなかったから、「なんやこれ?」いう感じではあった。
建物の上に『労働センター(あいりん労働公共職業安定所)』とかは書いてたけど、なんのこっちゃ分かってなかった。