ただ、僕が女子ソフトボール部で良い成績を収めてたので男子たちから「あいつ、スゲーよな」って言ってもらえて、それでますますソフトボールにも打ち込んでいたので。ソフトボールに夢中すぎて、性のことで悩む暇がなかった。学校では部活動、家に帰っても素振りするし、走るし。
実は、中学の時に、男友達とかに性別のことを打ち明けてるんですよ。FtMというワードは使ってないですけど。でも、そもそも僕がボーイッシュだったから「だろうね」「まぁ、かっこいいじゃん」っていう感じで言ってくれてて。だから、中学では周りに理解があった。
ーー周囲の子たちも、性別違和についてはご存知だったのですか。
進一 僕が小5の時にやってた『3年B組金八先生(第6シリーズ)』(TBS、2001年)に性別違和の話が出てきたんで、知ってたと思います。僕も見ていて「あ、僕と同じ気がするな」って思いつつも、そっちのけで日々を送ってました。
「幼少期のあだ名は“ABC”」出自へのコンプレックス
ーー進一さんは、お父様は日本人ですけど、お母様がフィリピンとアメリカのミックス、母方の祖父がフィリピンとスペインのミックスとのことですが、ルーツ的な面で悩むことはありましたか。
進一 めちゃめちゃありましたよ。嫌でしたもん、混血であることが。「あいつ、外人だ」みたいな。小さい頃は、いまより外国人っぽい顔をしてたので目立つんですよ。保育園の時、「ABC」ってあだ名で呼ばれてたんで。
「なんで、自分の親は外国人なの?」「なんで、お父さんは日本人と結婚してくれなかったの?」って。僕、性別よりもそっちのほうが本気で嫌だった。保育園、小学校は、国籍とか血筋のことで言われるのがコンプレックスでしたね。「どうして、自分はみんなとこんなに違うの」って考えすぎて、頭がおかしくなりそうでしたもん。
ーー家のなかの常識と、家の外の常識が違いに戸惑うこともあったのではないかと。
進一 母親の文化が明らかに日本の文化と違うし、こっちの考えが通じない。学校でこういうことがあったと話しても、理解してもらえない。でも、家で一番長く一緒にいるのは母親ですから。お父さんは、外で仕事してるし。だから、ストレスがすごかった。
それと言葉。お母さんは、日本語は通じるけど片言で。家に僕といる時はタガログ語を話してたんで、おかげで、保育園の時はタガログ語がペラペラだったんですよ。いまは、まったくわからないですけど。
で、親とタガログ語で話しているのを聞かれたりすると「なに、その変な言葉」「あの子、変」みたいな。中学、高校では、血筋についてなにかを言われたりはしなかったけど、それでも引きずっていたというか。自分の顔とか見た目は好きになれなかったですね。