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1泊1700円の宿に1カ月間滞在――日雇い労働者で溢れていた山谷の街をルポする

――50年後のずばり東京 #1

2017/12/24

「山王」の戦後復興

 山谷がなぜ、簡易宿泊施設が集まる「ドヤ街」と呼ばれるようになったのか。その歴史を紐解いてみると、かつて「山王(やまおう)」と呼ばれたある人物が浮かび上がってくる。

「山王」こと、帰山仁之助さんは、ほていやの経営者、哲男さんの父親だ。大正元年に浅草で生まれ、昭和63年に他界しているが、その肉声が収録されたカセットテープが、今も哲男さんの手元にある。内容は、昭和45年暮れに行われた浅草ロータリークラブ例会におけるスピーチで、戦争で焼け野原となった山谷における復興の歴史が語られている。

「終戦の年は、私が33歳ぐらいの時でした。疎開していた土地が東京都下の檜原村(ひのはらむら)という山中だったので、東京で材木を売ったらどうかということになってやったわけです。そのうちに山谷の旅館の復興の話が出てきたんです」

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 戦後、上野の地下道や浅草の公園、新橋駅などは浮浪者で溢れた。厚生省や東京都は、彼らの処遇に手をこまねいていたところ、瀬戸物業で財をなし、戦後は製材業に転身した仁之助さんに協力を願い出た。そこで仁之助さんは知人とともに、上野にトラックを運んで浮浪者たちを山谷のテント村へ次々と連れてきたという。当時の模様について、テープではこのように語られている。

「人の厄介にならずに自分で働き、宿銭払って食ってゆける者は山谷へ来いと。そうすれば、あなた方のために宿ができてるから、と声を掛けましたところ、山谷のテント村は1000人を超えるほどの人になり、満員になってしまいました」

 終戦から5年後、仁之助さんが材木を供給し、また出資者を募ったことで簡易宿泊施設が次々と建ち始めた。当時の写真を見ると、瓦屋根の木造建築で、壁には「民生局後援」と大書されていることから、東京都の協力もあったことが分かる。宿泊施設はたちまち「上野の浮浪者たちが住める」と話題になり、大勢の人々が山谷に流れてきたという。やがて日本経済の高度成長に伴って土木・建設作業や港湾荷役作業における働き手の需要が高まり、日雇い労働者の街へと変貌を遂げた。

宿泊施設の屋号が至る所に見られる山谷の街並み ©水谷竹秀

 昭和39年の東京オリンピック開催に向けて進められた都市基盤の建設・整備には、山谷の日雇い労働者たちが現場に出向いた。その頃には約220軒の宿泊施設に約15000人が暮らしていた。

 ところが時期を同じくして労働者による暴動が繰り返されることになる。「警察官の取り扱いが不当だ」と訴える労働者の群れが通称「マンモス交番」に集まり、投石や暴行を働いたのだ。労働者は多い時で3000人に達した。

 マンモス交番の正式名称は、浅草警察署山谷警部補派出所で、昭和35年3月に完成した。鉄筋コンクリート3階建てで定員は約60人、日本では最大規模と言われた。

 当時、小学校高学年だった哲男さんは「断片的にしか覚えていないが」と前置きした上で、その時の様子について記憶をたぐり寄せた。

「僕は危ないから遠巻きに見ていましたが、すごい人の群れで、板切れでも何でも投げていました。歩道にあった石畳を壊し、交番に向かって投石もしていましたね。火が飛び交っているのも見ました。あの暴動で山谷には負のイメージが定着してしまったんです」

 暴動を抑えるため、労働問題や生活保護、児童福祉などの相談を行う生活相談所や労働センターが相次いで設立された。ところが思惑通りに暴動が沈静化することはなく、警視庁浅草署によると、暴動は昭和35年1月から平成2年ごろまで断続的に約110件発生し、労働者にも警察官にも多数の負傷者が出た。

 40年代後半になるとオイルショックなどの影響で日本経済が低迷し、宿泊施設に暮らしていた労働者の数は1万人程度に減少した。さらにバブル崩壊によって労働需要は急減し、建設現場では作業の機械化も進んだため、労働者の減少傾向に拍車が掛かった。この結果、阪神淡路大震災が起きた1995年には約6000人へと落ち込み、高齢化も相まって現在は約4100人と、ピーク時の3分の1を下回っている。