――美術教師なのに、美術部ではなく運動部の顧問に。
グラハム子 美術部の顧問もしながら、です(笑)。赴任先の学校で、私がそのスポーツの強豪校出身だってバレてしまって。同僚の先生から「よかったらその部活の顧問もしませんか」と打診されたんです。もちろん、その先生は私がそのスポーツを好きだと思って、厚意で勧めてくれたんですけどね。
母との辛い思い出があるから、正直そのスポーツにはあまり関わりたくありませんでした。それでも周りから期待されていると思うと、嫌とは言えなかったんですよね。小さい頃から母に認められようと必死だった私は、いつしか「人の期待に応えられないと自分の価値がなくなってしまう」と思うようになっていたので。
それに大人になってからも「自分の意思で動くのはわがままで恥ずかしいこと」だと思っていたから……。
母から解放されるきっかけとなった“アキレス腱断裂”
――それで美術部の顧問と兼任することになったんですね。
グラハム子 その頃は、平日は授業と美術部顧問、休日は運動部の顧問と忙しすぎて訳のわからない日々を送っていました。大人になってからも摂食障害が続いていて、過食嘔吐を繰り返しながら“無茶”をしていましたね。だからかもしれませんが、あるときスポーツの練習中にアキレス腱を切ってしまったんです。
――アキレス腱……それはかなりの重傷なのでは。
グラハム子 救急車で運ばれて診察したら、2~3ヶ月は絶対安静と言われて。安静が解除になったあとも、普通の生活に戻るまでには1年かかりましたね。
でも、このとき真っ先に「これでもう母の言いなりだった人生から解放される」と思ったんです。それがきっかけで、私の心を縛っていた母の呪縛が徐々に解けていきました。
――それはなぜでしょうか?
グラハム子 アキレス腱を切ったことがきっかけで仕事を辞めることになって、好きだったダンスもできなくなりました。失ったものは大きかったけど、物理的に体の自由がきかなくなったことでやっと“無理に頑張らなくてもいい理由”ができたんですよね。体と心をゆっくり休ませて、自分と向き合う時間を作ることもできた。
高校時代から続いていた摂食障害も、ケガを治すために寝たきりの生活を送っていたら、症状が落ち着いて。これくらい衝撃的な事件がないと、“がんじがらめ”だった母の呪縛からは逃れられなかったのかもしれません。
写真=深野未季/文藝春秋