謎の助成金で経営が成り立つ日本の大学
また、日本では義務教育だけでなく高校や大学も無償化しようという議論が出てきました。もちろん、私も公明党などが高校無償化を早くから打ち出し、子どもたちが進学しやすい環境を作ることそのものは賛成です。
他方で、アメリカのチャータースクールのように、大量の学校ができて大量に潰れていく現状を追いかけるような広域通信制高校が拡充され、授業をしたんだかしないんだか分からないオンライン主体の教育に切り替えることに、さしたる教育行政上の意味があるとは思えません。
大学の無償化にしても、親の経済力で行ける大学が絞られるのは確かに不公正ですが、では競争的資金の導入で大学経営の優劣が決まるアメリカのように多額の学費を支払わせる一方、それらが寄付や奨学金で賄われる仕組みが果たして日本において適切かという議論を抜きにしたまま、「無料にすればいいんでしょう」というのは誤謬でしょう。
大学を乱立させ、また、新設学部が山ほどできていながら、経営不振の大学が潰されずに温存される状況もまた、外国からの「留学生」を呼び込むことに対して謎の補助金が大学に入り、そういう外国の留学生が無料で学べる日本の大学が何とか経営的に成り立つ不思議と隣り合わせになっています。さっきまで少子化って言ってたじゃないですか。なのになぜ新たな大学、新たな学部が必要なんですか。
日本の教師は世界標準の2倍働いている
つまりは、日本の文部科学行政の本当の病というのは、学校の現場に死ぬほど厳しい職場環境を押し付けて、単に子どもの教育を行うだけでなく、部活の面倒をみて、地域の風紀・安全も担い、さらには本来は家庭で為すべき躾まで教師にやらせることで、子どもに関する社会の接点はすべて家庭と学校とサードプレイスに集約させる社会構造となったからです。つまりは、子育て、児童福祉全体のなかで枢要な部分をすべて「学校」で賄わせてきたからでしょう。
これが仮にアメリカのような地域ごとに固定資産税で教育を賄うような仕組みであったならば、日本の教育はとっくに崩壊していると思います。世界に比べて日本の公教育に対する支出がGDP比で下位だというのは、単純に「日本全体の子守りを安い値段で教師に押し付け続けてきたから」に他なりません。教師の業務負担や時間給に対して応分の敬意と予算が払われれば、日本の公教育への投資額はごそっと(数字上は)増えることは間違いないのです。