無残に破壊された廃墟は撮影スポットと化していた
クルマはこちらの指定した時間通り、居候先の劇場前の憲法広場にやってきた。たった一人やというのに、ピンクのベンツの大型ワゴン車、通訳はマイケル、運転手はイゴールと名乗り、共にメディア・ハブから派遣された若い男であった。マイケルのほうはウクライナンでもポピュラーなミハイロの英語読みであろうが、まあロシアと同じように名前の種類が少ないので覚えやすく助かる。
二人には既定路線なのか先述の勝利広場やハリキウ州庁舎、その裏のビジネスセンター等市内中心部のロシア軍による砲撃現場に案内されたあと、やっと外国語学校にやってきた……というても、今までさんざん前を通ってきたのである。
校舎正面にはトロリーバスの停留所まであるわ、歩道と車道をさえぎるガードレールも高いわ、なんちゅうても緑豊かな静かな、まさに教育のための環境である。ここにそのまま学校があれば、の話ではあるが。
しかし学生らの歓声のかわりに鳥のさえずりが聞こえるぐらい静かである。かろうじて焼け残った正門にはソ連時代からの名残かウクライナ語とドイツ語でスローガンが掲げられていた。
「学んで成功、人生成功」
今となってはアウシュビッツ収容所の門のアーチに掲げられた「働けば自由になれる」ぐらい哀れである。ロシア軍はウクライナの若者から教育の場も奪ったのである。これは罪深い。
3階建ての校舎は屋根まで焼け落ち、黒板、教科書などレンガ以外の木製、書類などは真っ黒な灰と化した。
不幸中の幸いで学生、教職員とも避難しており、犠牲者はでなかったものの、学び舎がこの有様。裏手の公園を青空教室としたほうが早いくらいの破壊である。
マイケルもイゴールも車から降りようともしなかった。
そんな校舎の周りをウロウロしては中をのぞき込む二人連れの少女が現れた。二人は並んで何度も周囲を歩き回っては中を何度ものぞきこんだものの、決して校舎内に足を踏み入れようとしなかった。
「ここの学生さん? 何年生?」
「12クラス……」
蚊の鳴くような英語の返事だった。その後、絶望感に打ちひしがれたのか、小走りに去っていった。
次に校舎内に現れたのは若いカップルであった。女性の方がポーズを取り出すと男のほうが指示をだし、写真を撮り始めた。
現役の学生にしたら、とうがたちすぎている。
「ここの学生さん?」
「いいえ、関係ない」
ようはこの絶望的な廃墟をバックにモデル撮影的なもんをやっているのである。したたかである。
そういえばかくいう不肖・宮嶋も1995年12月、ボスニア紛争停戦前後紛争当事国のボスニア、クロアチア、セルビアで週刊文春誌上に「祝停戦!!ボスニア美女図鑑」なる企画を無謀にも敢行、各国で大ひんしゅくを浴びながら、たった一人で美女を求め廃墟を歩き回っていたのである(詳しくは文春文庫PLUSの「不肖・宮嶋のネェちゃん撮らせんかい!」ってこれも絶版かい! ホンマ日本の本文化はどないなるんじゃい!)。
特にパリで紛争当事国の代表が集まり、平和合意がなされた12月14日はあの、廃墟と化したサラエボの国立図書館内で現地女性にレフ版当てて写真撮っとったやんけ。
しかしその校舎内にも再び砲声が届いた。このいつ倒れてもおかしないレンガの壁なんぞロシア軍の152mm砲の至近弾食ろうたら、ひとたまりもなく崩れ落ち、その下でペチャンコである。
しかし二人は一向に意に介さず、撮影を続けるのであった。