昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2022/06/24

source : 電子書籍

genre : エンタメ, 娯楽, , 歴史, 読書

 だからこうして「日本国」の山頂に立ち、展望台から朝日連峰や鳥海(ちょうかい)山、日本海を見渡し、ブナに囲まれた二等三角点の脇にいることにぼくらは大いに感激し、また古代の山名伝説ロマンも楽しく、同行者とともに広い山頂をあちこち歩き回った。

 前夜の宿、温海(あつみ)温泉の古くて趣のある旅館を早朝に発ち、わずかな時間で小俣の登山口に着いた。

 小俣の集落は、失礼ながら鄙(ひな)びた山麓の村を予想していたのだけれど、それはみごとに外れ、旧出羽街道の宿場の保存復元が立派に行き届いた集落だったが、その見学は下山後の楽しみに残して駐車場に車を置き、新築の休憩舎で情報をもらい、地元の方々の親切を感じながら歩き仕度を整えて出発した。

 案内図でコースを確かめてから山道に入ると、道はよく踏まれて手入れもよかった。すぐにラジウム清水に出合い味わってみたが、とくに変わった味や香りはなかった。蛇逃(じゃのげ)峠は直下に小俣集落が見え、「新潟県山形県・県境」の木柱がある峠でひと休みした。

旧出羽街道小俣宿の街並みは、こんな感じの昔からの建物が軒を連ねる。どれも明治初期か中期の建築で、伝統的な民家の美しさを備えている。各家に屋号看板が出ているのも見どころだ。©小林泰彦/文藝春秋

 ここから県境稜線を行くことになる。すぐ先に「鷹待場跡」の表示があり、鷹の羽根は武器(弓矢)の部品として使われたと説明があった。しばらくして急な鉄砲登りになり、せっせと登って先が明るくなると、そこがもう山頂だった。展望台があり、冒頭の山名の由来が、そこにあった。展望台の近くに新築の立派な避難小屋があり、標高555メートルの里山としては周到な設備だと思った。

 スケッチをし、写真を撮り、松花堂弁当と野点(のだて)のコーヒーという妙なとり合わせの食事に時間を費やし、「日本国」の山頂に思い残すことがないのを確かめて、下山の時となった。

 蛇逃峠までは同じ道を下り、峠からは急下降し、そのあとはゆるやかにトラバース道を下った。意外にヤブツバキのような常緑樹が多く、それからヒノキの植林となり、蔵王堂を過ぎるとすぐに蔵王堂登山口で車道に出て、そこから車道を歩いて駐車場へ行くまでの間が、旧小俣宿の見学コースとなった。

松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で歩いた道

 この道は越後の城下町村上と庄内地方を結ぶ旧出羽街道で、出羽三山への参拝者や交易の人馬などで賑わい、小俣宿はその宿場で村上藩小俣口留番所がおかれ、村上藩減封後は天領となり代官所の支配を受けたという。そのせいもあって戊辰(ぼしん)戦争で宿場は焼き払われ、その後再建されたのが現在残っている町並みなのだ。

 各家は「二十化粧梁」という独特の様式で建てられ、養蚕をかねた住宅や旅籠(はたご)だったとあり、家毎の屋号看板を見て宿場時代を想像するのが楽しい。松尾芭蕉も「奥の細道」の旅でここを歩き、沿道に点在する清水に趣を感じて、「結ぶよりまず歯にしみる清水かな」とよんでいる。

 小俣を後に、ぼくらは日本海沿いの国道7号線を北上、「義経記」に出てくる念珠関(ねずがせき)の旧蹟と鼠ヶ関(ねずがせき)灯台を巡り、海に沈む夕日を観賞したあと、宿泊予定の瀬波(せなみ)温泉へ温泉へ向かった。(2007年春)

その他の写真はこちらよりご覧ください。

INFORMATION

全国津々浦々にある「低山」の魅力を凝縮した『日本百低山』(小林泰彦 著、文春文庫)電子書籍版が発売中です。

 

この記事の写真(9枚)

+全表示

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

電子書籍をフォロー