中卒コンプレックスから大学受験へ
――今では考えられないくらいファッション業界に入り込んでいたんですね。大物にも出会って、仕事も落ち着いたのでしょうか。
廣末氏 落ち着けば良かったのですが、そうもいかず。社会に出ると、中卒ではどうしてもできることに限りがあったんですね。取引先の商社は有名大卒の社員ばかりでしたから、「おまえは中卒で天然記念物だ」なんて同僚から軽口をたたかれることもあって、コンプレックスも感じていました。
そこで福岡に帰って23歳で通信制の高校に通い始めたんです。天神の百貨店でショップ店員などをやりながら、4年間。通信制では福岡大学に行った先輩がスターのような扱いを受けていたので、私も大学に行こうと猛勉強して、北九州市立大学法学部に合格しました。27歳の時です。特にやりたいことがあったわけではありませんが、法学部を目指したのは父親の影響でしょうね。
――北九州市立大学があるのは小倉ですよね。
廣末氏 そうです。だから大学の近くにある寮付きのパチンコ屋で働きました。パチンコは父親の影響で毛嫌いしていましたが、あそこには社会があった。高齢者が毎日パチンコ屋でお互いの健康を確認したりしていてね。
親父もこの社会のなかにいたのかー、なんて思いながら働きました。親父は大学2年の時に亡くなりましたから。パチンコ屋のほかにも、チープな宝石屋の呼び込みをしたり、紳士服を車に積んで地方で売ったり。広島や屋久島にも売りに行きました。
――大学卒業は31歳ですね。ストレートの学生よりも10歳近く上ですが、進路はどうなされたんですか。
廣末氏 就職活動は苦戦しました。あと一歩のところで生命保険会社を不採用になったこともあります。氷河期でもありましたしね。だからまたいろいろな仕事をして、卒業から2年後、大学院に入りました。
犯罪学をやろうと思ったんですよ。学問の世界では、不良やヤクザは社会不適応者とされていますが、不良の知人が多い自分には違和感があって。不適応者という割にはみんな明るいし、不登校でもなかった。