6月10日、1907年に刑法が制定されてからはじめて「刑罰」に大きな変革が起きた。懲役と禁錮を一元化し、新たに拘禁刑が創設されることになったのだ。拘禁刑では刑務作業を一律に義務づけることなく、受刑者に合わせた教育や作業が拡充される。
つまり、刑罰の目的が「犯罪者を罰する」ことから、「犯罪者を更生させる」ことへと方針の転換を行ったということだ。
こうした変革が起きた裏側には、数多くの人々の活動がある。“ヤクザ博士”と呼ばれる社会学者の廣末登氏も、元ヤクザや非行少年の更生を社会全体が阻害している実態があるとして、更生活動や啓蒙活動に力を入れてきた。
廣末氏は多くの学者が敬遠する裏社会の研究を進め、マスコミ関係者でも尻込みするような現場に足を運ぶ。現職のヤクザにも直接接触し、調査を行うこともある。元犯罪者らを擁護しているようにも思える論調から、書いた記事や著作は“炎上”気味だ。
「博士号を取得していても、教育機関にはコンプライアンスの問題から常勤採用されないんだと思います」
そう苦笑する“はぐれ研究者”はなぜそうまでして元犯罪者の支援を止めないのか。そこには、エリートらしからぬ波瀾万丈の半生があった――。(全2回の1回目/♯2を読む)
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ヤンキーが多い町で育ち、父は借金だらけの遊び人
――まずは廣末さんの幼少期について教えてください。
廣末氏 1970年生まれ、福岡市中央区の出身です。海の近くで造船所や漁師の子供に囲まれて育ちました。サラリーマン家庭は少なく、荒くれものというかヤンキーが多かったです。父は九州大学の助手で、刑法の学者でした。しかし、ちゃんと仕事をしないとんでもない遊び人でして……。パチンコにハマってしまい、かなり借金をしていました。母親に頼まれた私が、サラ金をまわって父に金をかさないように頼んだこともあるくらいです。亡くなるまで、ギャンブルの金を無心され続けていました(笑)。
父はかつて東京で今の新宿高校に通っていましたが、戦時中に福岡に疎開。名門校である修猷館を経て、九大法学部に進学するエリート街道を一応は進みましたが、ラグビー部で気性は荒かったですね。