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炎上気味、就職困難でもアウトロー支援を続ける“ヤクザ博士”の波乱万丈すぎる過去「幼い頃、街角が家族だった」「専門学校が半グレに乗っ取られた」

炎上気味、就職困難でもアウトロー支援を続ける“ヤクザ博士”の波乱万丈すぎる過去「幼い頃、街角が家族だった」「専門学校が半グレに乗っ取られた」

ヤクザ博士 廣末登氏インタビュー#1

genre : ニュース, 社会

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中2から「ビーバップ・ハイスクールに(笑)」

――破天荒な父親のもとで育ったと。廣末さんはグレる、なんてことはなかったのですか?

廣末氏 大学の教員という自負もあったのか、父親には小6から地元のエリート専門塾に通わせられました。小学校のときのテストはほぼ満点。しかしからくりがあって、父親がどこかから解答用紙を入手してきていたんですよ(笑)。だから最初は私もエリート街道を進んでいるような感覚がありました。でも中2の時に学費が払えなくなり、塾を突然辞めることになったんです。母はいくつも仕事を掛け持ちしてくれていましたが、それでも塾の学費は厳しかったようです。

 中2病とはよく言ったもので、塾を辞めた中2から非行の道へ。まずは服装から、ビーバップ・ハイスクールに(笑)。ダボダボのボンタンを穿いて町をうろつきました。家に帰らなくなり、街角が家族みたいな感じで。

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――現在だと、歌舞伎町のトー横キッズの福岡版のような感じですね。

廣末氏 だから高校にも進学しなかったんです。金銭的に恵まれていなかった反動で、まず金を稼ぎたかった。母親によると、中学卒業後に通信制の高校に入っていたらしいのですが、記憶にない。それくらい勉学はやっていませんでした(笑)。

東宝ビル西側広場

 中学卒業後、晴れて“フルタイムの非行少年”になり、遊ぶためにバイトに励みました。以後、現在に至るまで30以上の仕事をしてきたと思います。最初のバイトはケンタッキーフライドチキン。ですが不良文化しか知らず、職場の水があわなかったために長続きはしませんでした。時効だから言いますが、10代の頃はカセットタイプのウォークマンを万引きしたり、恐喝したりとやりたい放題でした。いま思い返しても、いろいろな方にご迷惑をおかけしてしまって本当に申し訳ない。お恥ずかしい限りです……。

――現在の腰が低い丁寧な廣末さんからは想像がつかないですね(笑)。

廣末氏 当時は世間知らずの若者でした。どの仕事も続かず、ケンタッキーの次は、シェーキーズピザ、バーテン、屋根のコーティング、2020年に閉店した天神ビブレでショップ定員……。阿蘇の牧場にも試験的に住み込みましたが、本当にどれも数カ月単位で続かなかった。ひたすら金を稼ぎたかった。それでも、時給450円の時代ですから、厳しい生活でした。

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