ホームレスとなった人々に、一時的な宿泊場所と食事などを提供、生活指導や就労指導を行うことでホームレス状態の脱却を図る「自立支援センター」という施設がある。施設は東京都、神奈川県、大阪府、愛知県、福岡県に所在し、各自治体・各施設によって利用期間や定員、支援内容はさまざまだ。
2019年5月15日、ノンフィクションライターの川上武志氏は保護を求め、台東区・上野の自立支援センター台東寮(現在は閉鎖されている)に飛び込んだ。自立支援センターでの生活はいったいどのようなものだったのだろう。ここでは、同氏の著書『ホームレス収容所で暮らしてみた 台東寮218日貧困共同生活』(彩図社)の一部を抜粋。自立支援センターから就職を目指した男性の仕事観について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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ショーコーとの出会い
6月の声を聞いたとたん、見学者の姿を頻繁に見かけるようになった。個人や少人数で訪れることはなく、いつも20名前後の団体が押しかける。台東寮のような施設はアンタッチャブルな存在と思っていたので、平然と見学者を受け入れることに違和感を覚えた。
それにわざわざこんなところまで来なくても、上野公園に行けば野宿焼けして悪臭を振りまいている筋金入りのホームレスにいくらでも会えるのだが、ホームレスの更生施設は一見の価値があるということなのだろう。
私がショーコーと初めて言葉を交わしたのは、満足に就職活動をしないでまごまごしているうちに、寮生活もまもなく1カ月になろうとしていた6月11日のことである。杉山たちと揉めた直後(編集部注:自立支援センターの入居者。会話時の声の大きさをめぐって筆者とトラブルになった)だったので2号室にいるのがなんとなく気まずくて、夜遅く1階の娯楽室でテレビを観ているときに彼から話しかけてきたのだった。
2018年7月6日にようやく死刑が執行された元オウム真理教の教祖・麻原彰晃と同じような長髪で体型もよく似ていることから、彼は仲間たちからショーコーと呼ばれている。
ただ台東寮のほうは本家のようなアクの強い顔立ちではなく、いかにも人柄のよさそうな、善良そのものといった顔立ちをしている。いつもにこにこしていて、寮生活を目いっぱいエンジョイしているように感じた。自立支援センターを利用するのは3度目だという。2度目というのはけっこう多いが、さすがに3度目は滅多にいるものではない。私はもちろん今回が初めてである。
最初に飯場に入ったのは、17歳のとき
前回は6カ月間滞在して、そのあと飯場に入ったらしい。仕事は土方である。自立支援センターの寮には、退所したあと半年間は入所できないきまりになっているので、飯場で半年余り辛抱して台東寮に入った。舞いもどってくるのは、居心地がいいからということになる。ただ以前は台東寮ではなく、足立寮だったらしい。
「このあと台東寮を卒業しても、再び半年間飯場暮らしを送ったあと、4度目を狙ってんじゃないの?」
「それが、4度目は勝手が違うんです。入所はさせてくれるけど、わずか2週間で追いだされるんですよ」
「たった2週間というのは厳しいね」
仏の顔も3度ということなのだろう。
「厳しいなんてもんじゃないですよ。死活問題です」
「大げさだな。それで、飯場暮らしは長いの?」
「最初に飯場に入ったのは、17歳のときです。でも飯場暮らしばかりではなく、実の親父が渋谷のほうで飲み屋をやっていたので、手伝ったことはありますけど」
「実の親父って、ほかに義理の父親もいるってこと?」
「小さい頃は親戚の家をたらいまわしにされていましたからね。だから、お父さんやお母さんと呼ばされた人は何人かいますよ。その頃、おじさんと呼んでいたのが実の父親で、それを知ったのは中学を卒業したあとでした。母親の顔はいまだに見ていませんけど」
かなり複雑な家庭環境で育ったようである。