「アスリートだって“ただの人間”」のはずが…?
プロスポーツ選手とは、類い希な身体能力や技術でハイレベルなパフォーマンスを発揮する対価として、時に高額な報酬や社会的な地位を得ることも可能な職業だ。
自ら進んでその道を選んでいるのだから、有名になることのリスクも引き受けるべきだ――。そう考える人も多い。そもそも、期待され注目されることは、基本的には好ましいことである。
ただ、アスリートたちの“心のSOS”を聞くと、本来背負う必要のない社会からの過大な要望まで背負わされてしまっているのではないかと感じてしまう。取材したアスリートたちは、全員共通して「私たちは超人じゃない。アスリートだって“ただの人間だ”」と漏らしていた。
アスリートと観客、そしてメディアとの関係は、本来はお互いに力を与え合う関係のはずだ。アスリートは観客の応援によって目標へと向かう力をもらい、観客はアスリートの挑戦やパフォーマンスによって勇気や感動を得る。そして、私たちメディアはそれを媒介する役割として、アスリートの人間性や競技に向かう姿を伝える。
人の命が脅かされるような状況を放置してはならない
しかし、スポーツがビッグビジネスとなり、大きな注目が集まるなかで、その3者の関係はアスリートに過大な負担を与えるものに変化していた。私たちメディアがアスリートを「偉大な存在」として一面的に描いてきた事も、“俺理論”的な風潮を助長し、アスリートを苦しめる結果につながっていたのかもしれない。
そして何より、人の命が脅かされるような状況を放置してはならない。私たちの何気ない投稿や発する言葉が誰かの心を追い詰めて、死に追いやることだってあるのだ。
萩野さんは、心の問題に苦しみながらも、誰かに相談することは簡単ではなかったという。
「まず認めるということもすごく時間がかかったんですよね。そんなふうに思っている自分なんているはずがないよというふうに、やっぱり最初は思っていて。そういったことを人に話してはいけないと。そういうふうに思っている自分は、なんてだめなやつなんだみたいな。教えてもらっている先生に申し訳ない。ご飯をつくってもらっている親に申し訳ないとか」