旅館の最上階からは松川浦が一望にできる。中でも角部屋の眺めがよく、「この部屋を指定で泊まりに来るお客さんもいました」と目を細めていた。
だが、自慢の角部屋は見るも無残に壊れていた。壁が吹き飛び、天井は落ち、丸見えになった天井裏では、部屋を支える金属が大きく変形しているのが見えた。水洗便所の便器は根元から折れて、バラバラになっていた。
「発災した夜はコロナ禍で宿泊客がおらず、大事に至らなかったことだけが救いでした」と言う。
エレベーターが上下する部分には鉄骨が飛び出して使えない。二つの建物の接合部分には大きく隙間ができて、4階から直に地面が見える。
「建物は方々で歪んでいるのではないかと思います。修繕には壁などを全て取り払い、鉄骨を一つ一つ調べてからでないと安心して泊まってもらえません。そうなると、建て直すのと同じで、億単位の資金が必要になるでしょう」
しかし、そのような余裕はなかった。。
コロナ禍で客が取れず、預金を取り崩すような生活を続けてきたのである。1年前の地震では借金さえできなかった。修繕費は業者の見積もりで2000万円とされたが、地震保険は1400万円しか出なかったので、直せる部分だけ直したという。
あれから3ヵ月が過ぎ、また連絡を連絡を取った。すると、管野拓雄さんは今回の地震で新設された補助制度を使い、旅館を建て直そうかと検討していた。東日本大震災やコロナ禍で過大な債務を抱えた事業者には、5億円までなら100%補助する制度ができたのだ。
3ヵ月で修繕工事が始まっていた2011年。いまは…
「申請が通るかどうかは、これから県との交渉です。それにしてもいつになったら営業を再開できるのでしょうか。東日本大震災の時には、発災から3カ月の段階でもう修繕工事に取り掛かっていたのに」
組合長の管野正三さんも、震災時との変わりように嘆息する。
「松川浦のまちは津波に丸呑みにされました。うちは1階の天井まで浸水しただけでなく、原発事故で山形に避難をしました。このため営業再開までに10ヵ月もかかりました。
でも、あの時はまちの皆が『何とかしよう』『何とかなるから頑張ろう』という気持ちで前を向いていました。確かに、除染作業員が泊まってくれるなどして、営業的な追い風もありました。
が、今回は『もうだめだ』という話ばかり。ここまで疲弊してしまったのかと残念です。震災後の11年間よりも、これからの方が大変になるかもしれません」。そう顔を引き締めた。
撮影=葉上太郎
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