女の世界では、同い年くらいの友人達が集まった時、もし一人が高い社会的地位を得ているお金持ちだったとしても、
「ここは私が」
と、全員分を支払うということはありません。そこには専業主婦もいればパート主婦もいれば派遣社員もいる、となった時に、もしも一人が奢ったりすれば、あからさまな収入自慢になってしまいます。背景にデリケートな事情があるからこそ、実際の経済状況はどうあれ、女性同士の場合は割り勘が常。その点、男性の方が「上の人にひれ伏す」ことには慣れているのかもしれません。
兼好法師も「徒然草」において、男の「上自慢」に対する嫌悪感を示しています。たとえば飲み会の席において、「わが身いみじき事ども、かたはらいたくいひ聞かせ」るような人を、悪様(あしざま)に書いているのです。
「わが身いみじき事」とは、自分の優れている部分のこと。「かたはらいたし」とは、傍(かたわら)にいるのが恥ずかしくなってしまうような感覚の意ですから、まさに「聞いているのが恥ずかしくなるほど、自分自慢をしてしまう人」に、兼好法師は呆れているのです。
飲み会の席で、「俺の凄さ」について語らずにいられない人は、このように昔から存在していました。そしてそれを傍で聞いている人は、昔から「恥ずかしい」と思っていた。
嫌味たっぷりに兼好法師が書いているにもかかわらず、今に至るまで「俺の凄さ」を語らずにいられない男性は、存在し続けています。ということは、その手の人はこの先もすぐにはいなくならないに違いない。
徒然草で「俺の凄さ」を語る人に対するうんざり感が記されるのは、一箇所ではありません。別の部分では、自らの知識を披露せずにいられない高齢者に対して、「いかがなものか」と書いています。年をとったならば、たとえ知っていることについてでも、
「今は忘れにけり」
などと、つまり「もう忘れちゃったなぁ」と言っているのがよいのだ、と。
これもまた、現代に通じる部分です。出世自慢をすることができる現役のうちはまだいいとしても、華やかなりし過去のことを語らずにいられないリタイア世代を、しばしば見るもの。
今、企業戦士としての武勇伝を下の世代に語らずにいられないおじいさん達は、自分達が若い頃、かつて日本軍の兵士だったおじいさん達から戦争時代の武勇伝を何度も聞かされてイライラしていた世代。人のフリを見ていても、なかなか我がフリを直すようにはならないのであって、
「今は忘れにけり」
の域に達するのは、よほど難しいことなのでしょう。