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焦燥感からのアピール

 兼好法師が田舎の人に対して厳しいことは以前もご紹介しましたが、徒然草を読んでいますと、「俺って凄い」と言わずにいられない人には、ある種の法則があてはまる気がしてきました。高齢者や片田舎の人というのは、いわば中央から外れたところにいる人。その手の人ほど、「俺の凄さ」を語らずにはいられないのではないでしょうか。

 中央の、さらにど真ん中にいる人であれば、その偉さや凄さを自分でアピールしなくとも、他人が無条件で認めてくれるもの。しかし既に社会の中枢にいるわけではない高齢者、はたまた地理的に中央ではない所から来た人などは、その「中央から外れている」という焦燥感からつい、アピールをしてしまう……。

 現代においても、同じ事が言えましょう。高齢者の過去の栄華自慢は言わずもがな。京都の人は今も、

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「東京の人って、ほんまに京都が好きやなぁ。私らよりも、よっぽど京都のことをよく知ってはるわ~」

 などとニヤニヤしながらおっしゃるものですが、それも東京という片田舎から出てきた者ほど、「自分はこんなに京都のことをよく知っている」と、京都の人の前で怖いもの知らずの自慢をしがちだからなのです。

 考えてみれば冒頭に記した飲み会において、出世臭を漂わせつつ奢ってくれた人も、出世したとはいっても、まだポジション的に上り詰めたわけではありませんでした。本当に組織の中枢部に行くことができるかどうかは、これから決まるという感じ。その中途半端さ故に、彼は「俺って偉いんだよね」という主張をしたかったのでしょう。

 本当に頂点まで行った人からは、えてして「俺って偉いんだよね」という出世臭は漂わず、無臭なものです。ま、トランプさんとかは違うのでしょうが。

 また最初から出世することが当たり前の立場にいる人、たとえば歴史あるオーナー企業の創業家に生まれた息子のような人で、出世自慢をする人も、見たことがありません。彼等にとって、出世は当たり前。若くして責任ある地位を任されるわけですが、皆どこか含羞(がんしゅう)をもって、その地位に就くものです。

 対して庶民からのたたき上げで、頑張って地位を得た人にとって、その地位は珍しい玩具のようなものなのでしょう。彼等が玩具を見せびらかす様は子供のようで可愛らしくもあるのですが、しかし実際は既におっさんであるため、可愛さよりも恥ずかしさが勝ってしまうのです。

 兼好法師も、そういった意味では非常に恥ずかしがり屋でした。彼は、出世コースに乗ることが叶わずに、出家した人。おそらく出世への願望も持っていたはずで、だからこそ他人の自慢が気になるのではないか。

 彼は、

「他にまさることのあるは、大きなる失なり」

 とも書いています。他人より優れたところがあるというのは大きな欠点なのだからして、そんなところは忘れていた方がいいのだ、と。

 それはよくわかるけれど、なかなかそうはできませんよね、ということは、兼好法師自身が示しています。随筆などというものを書くこと自体が自慢行為に他ならない上に、徒然草には、あからさまな自分の自慢話もたっぷりと書いてある。「俺って凄い」ということを言わずにいるのは本当に難しいことなのだと、この随筆は表現しているのです。