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「腹立たしげに断られたら」「善人ぶってると思われたら」日本人が“人前での親切”という羞恥プレイに不慣れな理由

『無恥の恥』より#2

2022/07/08

source : 文春文庫

genre : ライフ, ライフスタイル, 娯楽, 芸能, 読書, 社会

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 そんなわけであの日、あの空港で紙片を失くされた、そこのあなた。それが当せんした宝くじなのか、スパイに渡された機密文書なのか、はたまた愛人と交わした睦言(むつごと)のメモなのかは定かではありませんが、それはお掃除のおじさんのちりとりの中にあります。すぐに「落としましたよ」とお伝えせず、本当に申し訳ない。

 ……と今も反省する私であるわけですが、私が紳士に「落としましたよ」と言うことができなかったのは、「ちょっと恥ずかしかった」からなのです。その時、紳士と私の距離は、数十メートル。突っ切るとやけに目立つ空間でもありました。さらには、落としたのが鼻紙とかレシートとかどうでもいいものであった時の身の処し方もなぁ、などと考えているうちに、お掃除のおじさんが掃きとってしまった。

©iStock.com

 私には、ランウェイのような数十メートルを歩いて「落としましたよ」と紳士に声をかける勇気が、ありませんでした。紙を落としたことによって、あの紳士はビジネスに失敗したかもしれないし、家庭が崩壊したかもしれない。……と飛行機の中で考えだすと罪悪感はさらに募り、「これからは必ず、声かけます」と誓ったのです。

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善行という羞恥プレイ

 落としたものを知らせてあげるのも「善行」の一種かと思いますが、この善行というもの、特に人が見ている時にするのは、何とも恥ずかしいものなのでした。電車の中で席を譲るタイミングをつい逸してしまうのも、恥ずかしさがそこにあるから。特に、少し離れた場所にお年寄りが立っている時など、「腹立たしげに断られたら」「善人ぶってると思われたら」などと思いが錯綜(さくそう)し、そうこうしているうちに他の人が譲っていたりする。

 赤い羽根やあしなが募金にしても、汚(けが)れを知らぬ子供や青少年達が街頭にずらりと並んで、

「ご協力お願いしまーす!」

 などと絶叫しているところにつかつかと近寄って募金するのには、勇気が必要です。募金の後はまた、

「ありがとうございましたーッ!」

 と絶叫されると思うと、群れから外れて一人、募金箱を持つ人を探したくなる。

 募金であれ、お年寄りに電車の席を譲ることであれ、善行の決行時、最も悩むのは「事後、どうするか」ということでしょう。人前での善行という羞恥(しゅうち)プレイの後、自然に「その他大勢」に馴染んでいくのが難しい。

 それは、ボウリングでの投球後と似ています。球を投げた後、特にストライクなど出してしまった時は、仲間の待つ方へと帰る道中でどんな顔をしていいやら、あなたは悩みはしまいか。自慢気な顔はできないし「当然です」という顔もしづらいということで、それは電車でおばあさんに席を譲った後に、どんな顔で立っていればいいのか、という感覚と同じです。

 どんな顔をしていいかわからないにしても、その時の気分が悪くはないことは、確かなのです。席を譲ったおばあさんに喜んでいただけると、「良い事した」とウキウキ。こころなしか景色も美しく見えるし、天国への道も確約されたかのような大きな気分に。完全に、善行ハイになっています。