ですから私も、ボランティアに熱心な芸能人のことをディスる人達の気持ちは、理解することができるのでした。彼等は、堂々と良いことをする杉良太郎(例)を見ることによって、「自分は何もしていない」という罪悪感が刺激され、気分が悪くなる。その不快感の責任を、当の杉良太郎にとってもらおうとしたのではないか。
しかし「ボランティアに熱心な芸能人」は、日本にとって必要な存在なのだと、私は思います。我々は、「シャイ」という国民性を宿命的に抱えているのであり、それはいくら時代が進んでも、大きく変わることはない。その中で芸能人という人々は、普通の市民よりは、人前に出たり、目立ったりすることが得意な人。そんな人が一歩先に立って善行に勤いそしむことによって、普通の人々の中から「では私も」と思う人がでてくるのですから。
一人でも善行が積めるのか
見知らぬ人の手助けをさりげなくする、といったことは不得意な日本人ではありますが、いざ集団となった時は、善行パワーを遺憾(いかん)なく発揮することができます。震災等の災害時も、様々な集団がボランティアに駆けつけたもの。
はたまたサッカーの国際試合の後などは、「日本チームのサポーター達が、自主的にゴミを拾ってから帰った」といった話が、伝えられもします。チャラチャラした若者達が、何かの祭りの後にゴミ拾いをするのは、今や定番の行動。
ゴミ拾いは、日本人にとって最も身近で、手を出しやすい善行なのでしょう。それは他者とコミュニケーションを取らずとも進めることが可能なので、サッカーのサポーター達は、言葉の通じないアウェイの地においてでも、行うことができる。全ての悪事はゴミのポイ捨てから始まると目されている我が国において、「ゴミ拾い」は、善意を表明するための、最も基本的な行為です。
ヤンキー集団が地元の祭りの後でゴミ拾いをしている時、その表情には若干のテレ、および誇らしさが浮かんでいます。周囲の人々も、ゴミ拾いをしているヤンキー集団を見て、「何だ、本当は良い人達なんじゃない」という表情。ゴミ拾いは、一度道を逸れた人達にとって、改心を表明するための象徴的行為ともなるのです。
日本人にとって問題なのは、それを「一人でもできるのか」ということでしょう。一人で歩いている時に、道端の紙屑(かみくず)を拾うことができるか。一人で電車に乗っている時、車内をいつまでも転がり続ける空のペットボトルを拾い上げ、駅のゴミ箱に投入することができるか……。「一人」でいることは、我々にとって最も自由であり、同時に最も不自由な状態でもあるのでした。
この春(2018年)から、小学校では「道徳」が教科として教えられるのだそうです。悪い事はせず良い事をするように子供達を指導するのだと思いますが、しかし「道」とか「徳」とか言われても、日本人にとって正しい道が何なのか、知っている大人などいるのか。
宗教心の薄い、日本人。道とか徳の根幹部分がどこにつながるのかはっきりしないのが、我々の善行下手の一因という気もします。であるならば道徳の時間には、枝葉末節(しようまっせつ)から子供に教え込む、というのはどうでしょう。
すなわち九九の暗記のように、「お年寄りには席を譲る」とか「ベビーカーのママは助ける」といったことを、叩き込む。決められたことに従うのは我々も得意ですから、「なぜ席を譲るべきなのか」などと考えず、反射的に身体が動くようにすれば、日本人の善行下手も、下の世代から改善されていくかもしれません。その後で、「道とは? 徳とは? そして善とは?」と考えても、遅くないのではあるまいか。
誰かが何かを落とした時、「落としましたよ」と言うこともできない者に、世界平和など願うのは無理。これから始まる道徳教育においては、あまり大きなことを考えず、「近くにいる人に親切にする」くらいの目標から、まずはスタートしてほしいものだと思っています。